第二十五話 果 実 (かじつ)
路地裏を飛び出して向かった先は、飲食店や食料品を扱う露店の並ぶ区画だった。
夕刻を過ぎ、食料品を扱う露店の多くはすでに店じまいを始めている。
幾つかの露店の店先を足早に通り過ぎながら眺め、そのうちの一軒の前で立ち止まった少年は、片付けの最中の店主に向かって声を掛けた。
「そ、その……買い物がしたいんだけど——いいかな」
「今日はもう帰るとこなんだ。早くしてくれよ」
横目をくれつつも、店主は作業の手を止めることなく答える。
「う、うん! ……わかった!」
店先に並ぶ色とりどりの果実に目を走らせるが、どれを選んでいいのかまったく見当が付かない。
酒場で何度か食べたことがあるからと考えていたが、目の前のそれらは自身の知る切り分け済みの果物とは外見が大きく異なっている。
また、それ以上に頭を悩ませたのは、手持ちを支払って買い物をするのが初めてであるという事実だった。
勝手がわからず右往左往する様を見るに見かねたのだろう、手を止めた店主が声を掛けてくれる。
「どうした? 何か欲しいものがあるんじゃないのか?」
「あ……! う、うん! ええと、この中で一番おいしいのはどれかな——?」
「一番だって? 一番って言われてもなあ……そりゃいろいろだよ。酸いのが好きか甘いのが好きか、逆に渋いのや苦いのが好きな奴もいる。人それぞれ好みが違うから一概には言えないなあ」
腕組みをして考え込むと、店主は店先に並んだ木箱の中身を指差した。
「なんでもいいなら、それなんてどうだ?」
店主の示した木箱を探り、少年は橙色の小さな果実を手に取る。
そっと鼻に近づけてみれば、青くさいがどこか爽やかな香気が鼻腔を刺激した。
「そっちのもうまいぞ」
続いて店主は隣の箱を指差す。
橙色の果実を手にしたまま、店主が続いて示した箱の中身を反対側の手に取った。
いびつな丸形をした赤く艶のある果実は先ほどのものよりひと回りほど大きく、掌に乗る重みから中身が詰まっていることがわかる。
顔を近づけて嗅ぎ比べれば、赤色の果実は橙色のそれよりも優しく柔らかな、甘酸っぱい香りを感じさせた。
左右の手に乗せた二つの果実を真剣に吟味した結果、橙色を箱に戻して赤い果実を店主に差し出した。
「こ、こっちにしようかな」
衣嚢から取り出した七枚の銅貨を、掌に乗せて店主に提示する。
「これだけしか持ってないんだけど……買えるかな?」
「ん? ああ、十分だよ」
店主は先ほど以上に驚いた様子を見せつつも、少年の掌の上から銅貨を一枚つまみ上げた。
「あ、ありがとう……!」
礼を言い、買い求めたばかりの赤い果実を頭上に掲げる。
左右に手首を返すと、手の中のそれを四方から眺め回した。
自分で稼いだ日当を使っての初めての買い物に感動を覚えるとともに、少女に渡したときに返ってくるであろう反応を想像して心を躍らせる。
「お、おい!? ——ちょっと待った!」
心ここにあらずの状態で露店を後にしようとしたところ、背中に慌てた様子の店主の声を聞く。
店主は振り向いた少年に向かって手を伸ばし、二枚の小さな銅貨を押し付けた。
「これ! 釣り、忘れてるよ!」
「お釣り……そっか」
我に返り、思わず膝を打つ。
思い出したのは、以前にアシュヴァルがしてくれた貨幣に関する話だった。
百年ほど前から大陸に流通するようになった貨幣とその価値について、彼は酒場の料理を例に挙げて説明してくれた。
小皿料理一品がおおよそ銅貨一枚分の価格で、銀貨はその十倍の価値がある。
商品は基本的に銅貨一枚単位で売買するのが基本だが、少額の品物をやり取りするために通常の銅貨の五分の一の価値を有する小型の銅貨も存在する。
便宜上これを小銅貨、一般的な銅貨を大銅貨と呼ぶのだとアシュヴァルは言っていた。
二枚の小銅貨を釣りとして受け取り、自身の買った赤色の果実の価格を知る。
釣りを衣嚢にしまい込む少年をあきれたように眺めると、続けて店主は何かを放り投げた。
「これも持っていきな」
「わっ……」
危うく受け損ないそうになりながらも、身体を使ってそれを抱き留める。
店主が投げてよこしたのは、つい先ほど買ったものと同じ、赤い色をした果実だった。
「え……こ、これは?」
「当たって売り物にならない傷物だ。よけて食えば味は変わらないから持っていくといい」
確かによく見れば店主の言う通り表面の一部に黒ずんだ箇所がある。
買ったばかりの同じ果実と見比べても、違いはその一点のみだった。
「ほ、本当にいいの? ありがとう!」
礼を言ったときには、すでに店主は店じまいに戻っていた。
周囲を見回せば、すでに完全に片付けを終えている露店もある。
店主は撤収作業を行いながら、背を向けたまま言う。
「アシュヴァルにもよろしく言っておいてくれ」
「……う、うん! わ、わかったよ……!」
二つの林檎を衣嚢に突っ込み、少女の元に向かって走り出す。
道行く人にぶつかりそうになるたび謝罪を口にしながら、全速力で往来を駆け抜けた。
予想以上に時間がかかってしまった。
少女を捜して、あわよくば見つけて、少し話ができたらすぐに帰る予定だった。
アシュヴァルが心配しているに違いない。
もしかするとなかなか戻らない自身を案じ、無理を押して捜しに出ているかもしれない。
一刻も早く帰宅し、彼の分の食事を手渡し、何もなかったと伝える必要がある。
鉄の檻の置かれた路地奥まで戻った少年は、息を切らせながら膝を突き、買ったばかりの赤い果実を格子の隙間から差し入れた。
「——こ、これ……君に」
少年の顔と手の中の果実に視線を行き来させたのち、差し出されたそれに両手を添えながら少女は答える。
「これ、わたしに」
「……うん、そうだよ。……君に」
息を弾ませつつ首肯すれば、少女は今一度自らに言い聞かせるように呟いた。
「わたしに」
一つの果実を二人でつかんだ状態のまま静止していた二人だったが、沈黙を破って先に動いたのは少年のほうだった。
「そ、そろそろ……戻らないと」
果実から手を離し、未練を断ち切るかのように立ち上がる。
続けて幌に手を伸ばしながら、檻の中から見上げる少女に視線を落とした。
「その……ま、また来るから! 来て——いいかな……?」
「来ていい」
「……うん。また来るよ」
繰り返すように呟く少女に小さくうなずきを返し、元通りに檻を幌で覆っていく。
隙間から見詰める彼女の視線から逃げるように固く目を閉ざし、ひと息で幌を覆いかぶせた。