第二百五十六話 告 解 (こっかい) Ⅱ
「蹄人にだってね、誰にも負けない取りえがあるんだよ。足の速さだったら誰にも負けない子もいれば、長い間休みなしで歩き続けられる子もいる。それからツェレンみたいな穭人は寒い中でも平気だし、わたしたち岨人は高い所が得意……それに――」
そう言って樹の幹に触れると、アリマは荒れた樹皮を掌でさすった。
「――蹄人は生まれながらに利他と博愛の精神を持った高潔な種なんだって、小さい頃からずっとそう聞かされて育ってきた。子供のわたしはその意味が全然わからなかったんだけど、お母さんを見てたらだんだんこういうことなのかなってわかってきた。お母さん、誰にでも優しくて温かくて……本当に博愛の人って感じだった」
樹の幹をなでつつ母のことを語る彼女の目からは、在りし日を顧みる懐古の念のようなものが感じられる。
エデンもアリマの隣に進み出ると、彼女と並んでその梢を仰ぎ見た。
「これが、アリマのお母さんの樹……」
「うん。わたしの生まれた年に、お父さんとお母さんで植えてくれたんだって。だからこの樹はわたしにとって妹みたいなものなんだ。一緒に育って――昔はわたしのほうが大きかったんだけど、今はもうこんなに差が開いちゃった」
爪先だって背伸びをするアリマだったが、頭上に向かって差し伸ばした手は最も下方に位置する葉にすら届かない。
「昔は届いたんだけどなあ……」
気落ちしたように呟くアリマを横目に捉えながら、エデンは彼女の語る母について思考を巡らせていた。
宿の仕事は父である主人とアリマの二人で切り盛りしており、何よりこの村にたどり着いてから一度もその姿を見ていない。
それに何よりアリマの口ぶりから、彼女の母がすでに故人であろうことは察しが付いた。
頭上高く伸ばしていた手を下ろすと、彼女はエデンに向かって尋ねる。
「エデンのお母さんは元気?」
「母……親——」
「うん、そう。エデンのお母さんと、それにお父さんも」
ぼうぜんと口を開けて呟くエデンに、アリマは催促するように言い添えた。
この世に命を受けている以上、生みの親が存在することは自明だ。
だがどこかに置き忘れてしまった過去と記憶に思いをはせることはあっても、両親について考えることはほとんどなかった。
もちろん全くというわけではなく、親の所在を尋ねられることも何度かあれば、集落を歩く親子連れを目にして思うところもあった。
だがなぜだろうか、不思議とこの世界に自身と似た姿形を有する生みの親が存在することを信じられない気持ちが強い。
それが記憶の喪失による一時的な錯覚なのか、あるいは自身を見知らぬ地に放り出したかもしれない親に対する些細な反抗心なのかは、今のエデンには判断が付かなかった。
「親は……どこにいるのかもわからない。——ううん、いるのかどうかも」
「ご、ごめんなさい……!! わたし、また無神経で!!」
「ううん、それは大丈夫。初めからいなかったみたいなものだから、あるものを失くすより悲しくはない――そんな感じかな」
自らの失言を悔いるアリマに対し、眼前に突き出した両手を振って答える。
口にしたのは彼女を慰めるための方便などではなく、エデンの偽らざる本心だった。
「じゃあ、ご両親に会いたくはないの?」
「うん、それもわからないって答えたほうがいいのかも」
「そうなんだ……何だか難しいね」
エデンの返答に、アリマは悩ましげな表情で頭をひねる。
そんな彼女の様子を眺めていたエデンの脳裏に、とある人物の面影が不意に形を結んだ。
別れを告げてから、いまだ三月も経っていない。
別れは別れだがそれは決して望まざる離別などではなく、あくまで自身の意志によるものだった。
それにもかかわらず彼女らと暮らした日々が無性に懐かしく感じられるのは、このどこか懐かしい田園風景と、楽団の奏でる音楽によって引き起こされた望郷の念の仕業だろうか。
「でも会いたい人はいるよ。母親——でもなくて、お姉さん……でもないかな。……うーん」
アリマは林檎の樹に背中を預け、眉間に皺を寄せて考え込むエデンの言葉を静かに待っていた。
「種も見た目も違って——アリマたちと同じ蹄人なんだ。きっとその……心の形も違うけど、でもあれが家族だったのかなって思える。短い時間だったけど四人で一緒に暮らして……だから――」
そこまで言って一人納得したように深々とうなずくと、エデンは改めてアリマを正面から見据えて告げる。
「――自分が連れて帰るんだ」
突然そんな宣言を聞かされても、アリマには何のことかわからないに決まっている。
自身の置かれた事情など彼女が知る由もなく、姿を消した少女を追って旅していることも説明していない。
口にした後でそのことに気付いて動揺するエデンだったが、アリマは優しげな微笑みを浮かべて「うん」とうなずいた。
その後、エデンは自身の旅の目的とこれまでの経緯を手短に伝える。
ひと通り話を聞き終えたアリマは感慨深げに「そうだったんだね」と呟き、今一度エデンを見詰めて言った。
「きっと見つかるよ」




