第二十四話 少 女 (しょうじょ)
「——う、うわっ!!」
真っ先に目に飛び込んできたのは少女の瞳だった。
まるで幌がめくられることを予期していたかのように、少女はじっと頭上を見上げている。
真に驚くべきは彼女のほうであり、幌をめくり上げた側が腰を抜かすなどお門違いも甚だしい。
とはいえまさか目が合うとは思ってもいなかった少年は、驚きのあまり跳び上がるように後ずさり、足を滑らせて後方に倒れ込んでしまった。
尻もちをついたまま、檻の中に座り込む少女をじっと見詰める。
そうしてしばらくの間、二人は視線をそらすことなく無言で互いを見合っていた。
往来から差し込む篝火の明かりだけが、薄暗い路地奥を照らしている。
暗がりの中で檻の中の少女の姿形は判然としなかったが、かすかな明かりを受けて輝く瞳だけが昨夜と同じく妙に印象的だった。
地面に手を突いて身を起こし、はいずるように檻に近寄っていく。
変わらずまじろぎもせずに見詰める少女に近づくに連れ、その容姿が闇の中に浮かび上がっていった。
薄汚れた襤褸の裾から伸びる四肢とそこだけ被毛の生えた頭部を目にし、彼女が自身と限りなく近い存在なのだと改めて確信する。
頭部を覆うくすんだ金色の毛の隙間からのぞく左目は、金とも銀とも取れる色であり、仄赤く輝いて見えたのは篝火の明かりを映していたからだろうか。
右目は散切りにされた毛に覆い隠され、正面からではうかがい見ることができなかった。
「あ、ええと——そ、その……」
何か話さなければならないと口を開くが、思うように言葉が出てこない。
半ば衝動的に飛び出して彼女のことを捜し始めはしたが、こうしていざ面と向かうと何を話せばいいのかまったく思い付かない。
話題になりそうなものはないのかと辺りに視線をさまよわせるが、路地裏の暗がりにそんな都合のいいものが転がっているわけもなかった。
座り込んだまましばらく無言で周囲を見回し、最終的に視線は自身の掌へと行き着く。
話すことと言えば自分自身のことより他にないと考え、少年は今一度口を開いた。
「じ、自分は——」
言いかけてはたと口ごもる。
自分とは、なんなのだろう。
名乗ろうにも名乗るべき名を持たないことが初めて歯がゆく思える。
語るべき過去と記憶がないこともひどくもどかしく、少年は再び口をつぐんでしまう。
檻の前でうつむいていたところ、額の辺り何かが触れる感覚を覚えて不意に顔を上げる。
触れたものの正体が檻の中から伸ばされた手であることを見て取ると、腰をついたまま尻込みするようにして少しだけ後ずさった。
触れられた箇所に手を伸ばし、改めて少女を見詰める。
そして自身と彼女の些細な共通点に思い至る。
「これ——」
左右ふぞろいに切られた頭部の毛に触れ、呟くように口にする。
「——君と似てる」
他に話すべき話題があったのではないかと自分でも思う。
共通点というならば、そんなことだけではないはずだ。
ずっと探し求めていた、自身とよく似た、同じ姿を持った——誰か。
そんな誰かにやっと出会えたにもかかわらず、どうにかひねり出したのが毛の話題というありさまには己のことながら落胆を禁じ得なかった。
「こ、これ、伸びてたから……その、少し前に切ってもらったんだ。切ってくれたのはアシュヴァルで——」
そこまで口にし、不意に言いよどむ。
「——アシュヴァルは、じ、自分の……その——」
言い付けに背いてしまったことに思い至れば、後ろめたさと良心の呵責を覚えずにはいられなくなる。
またもやうつむくように顔を伏せると、誰に対する弁解の言葉なのかがわからないまま、独り言のように呟いていた。
「これは——ち、違うんだ……違って——」
慌てて立ち上がろうとしたところで、先ほどまで自身の顔を見詰めていた少女の視線がわずかに下方に向けられていることに気付く。
その先をたどり、彼女の視線が地面に突いていた手の辺りに注がれていることを見て取った。
「それ」
「こ、これ……?」
沈黙を破って口を開いた少女は、檻の中から少年の手元辺りを指先で示した。
手に握ったものを持ち上げてみせると、彼女は小さなうなずきをもって応じる。
それは、酒場の主人が持たせてくれた今夜の夕食だった。
忙しい坑夫たちが片手で食べられるようにと主人が考えた、蕃茄で煮込んだ具材を麺麭で挟んだ酒場の定番料理だ。
少年の分とそれの三倍ほどの大きさのアシュヴァルの分が、木製の飯行李の中に収められている。
「お腹、空いてるの……?」
少女は膝を抱えたまま小さくうなずく。
「う、うん……! わ、わかった——! ちょっと待ってて……!」
衣服の脇で大ざっぱに掌を拭い、細かく手を震わせながら行李の蓋を開ける。
小さいほうの麺麭包みを取り出し、中央辺りで二つにちぎろうと試みる。
うまく分けることができず大きさに偏りが生じてしまったが、双方を見比べたのち、二つのうちの大きいほうを格子の隙間から差し入れた。
手を伸ばして麺麭を受け取ると、少女は躊躇なくそれを口に運んだ。
あっという間の行動にあっけに取られつつ、少年は自身も麺麭の半分を手にして建物の壁に背中を預けた。
「そ、そんなに慌てないでさ、ゆっくり——食べなよ」
声を掛けて手にした麺麭の半分を食べようとするが、ふと視線を感じ、口を開け放ったまま檻の中に目を向ける。
渡した半分を食べ終えてしまったのだろう、膝を抱えた少女は少年を——少年の手にした麺麭の半分を食い入るように凝視していた。
「あ——」
口に収めかけていた麺麭をすんでのところで戻し、半分にしたそれをさらに半分にちぎった。
四分の一になった麺麭を、再び格子の隙間から差し入れる。
「あっ……!!」
受け取ろうと伸ばされた少女の手に指が触れ、思わず麺麭を取り落としそうになる。
麺麭は手を離れて落下するが、少女の両手は素早くこれを受け止める。
小さな麺麭を両手で包み込むようにして口に運ぶ少女を眺めがら、少年も手にした四分の一を口の中に放り込んだ。
咀嚼する少女を横目で眺める中、ふとその首筋に目を留める。
そこにはアシュヴァルが言ったように金属製の首輪が巻かれていた。
きつく巻かれたそれが邪魔なのだろう、彼女は口の中のものを嚥下するのにも難儀しているようだった。
白く細い喉が脈打つように動く様に慌てて目をそらす。
見てはいけないものを見てしまったような感覚を覚え、胸に手を添えて大きく深呼吸をした。
乱れた気持ちを落ち着かせ、平静を装いながら恐る恐る少女に目をやると、四分の一の麺麭を食べ終えた彼女の視線は先ほどと同様に手元の行李へと注がれている。
「こ、これ——!? だ、駄目だよ! これは駄目なんだ……!!」
アシュヴァルの分を収めた行李を少女の視線から遠ざけるように背中に隠し、落ち着きなく立ち上がる。
「ご、ごめん!! これはあげられないんだ! ど、どうしても——!!」
謝罪の言葉を口にしつつ、寝台の上に横たわるアシュヴァルの姿を思い出す。
忘れていたわけではなかったが、あえて考えないようにしていたのは不義理を働いているという負い目があるからだ。
しかしこの時間も彼が帰りを待っていると思うと、気は急くばかりだった。
「も、もう帰らないと……」
指先に残る麺麭のかけらを名残惜しそうになめ取り始める彼女を前に、幌を掛け直そうとしていた手を止める。
「……その、少し待ってて」
言って衣服を探る。
今日の日当として手にした七枚の銅貨を握り締め、檻の中の少女を見下ろしながらもう一度口を開く。
「ま、待ってて!!」
口にするや否や、少年は檻のそばから勢いよく駆け出した。