第二百四十一話 混 迷 (まよい)
翌朝早く、皆より先に目覚めたエデンは林檎亭の裏庭へとやって来ていた。
いまだ日の登り切らない早朝の薄暗い庭で、ラジャンから預かった剣を無我夢中で振り続ける。
やみくもに振り回したとて強くなれるわけではないことも承知の上、もちろん勇者だ剣士だとおだてられたからなどでもない。
ならばなぜか問われると、返答に窮するより他はない。
旅立って以降は日々前に進むことに精いっぱいで、それを扱うすべをなおざりにしてきた自覚はあった。
抜かずに済むなら何よりという先生の言葉の真意を深く理解するよりも先に、握る機会を自ら遠ざけてきた部分もなかったと言えなくもない。
しかし剣を身に帯びている以上、他者からその扱い手として受け止められるのは必然だ。
それがたとえ分不相応に立派な代物だったとしても、自身が持ち主にふさわしくないと認識していても、そんなことなど周囲には一切関係のない話だ。
今回の件で、それを強く思い知らされた。
ラジャンがどんな心算をもって自身にこの剣を預けてくれたのかはわからないが、少なくとも護身のためのひと言で片付けられるものなどではないのだろう。
ローカと旅に出たいと伝えた際、ラジャンは彼の考える戦士の真の力の意味とともに剣を託してくれた。
そのときの彼の言葉を借りれば、エデンの心は完全に迷いの中にある。
インボルクから剣を手にする覚悟を問われたとき、即座に答えを返すことができなかったのが何よりの証明だ。
迷いと惑いのさなかにある自身が剣を抜けば、周りを巻き込んでしまうのは火を見るよりも明らかだ。
鉱山でも自由市場の河辺でも、半ば場当たり的に剣を抜いた自身を救ってくれたのは周囲の人々だった。
それでもあのときと同じような場面に遭遇したのなら、きっと何度でも剣を取ってしまうだろうとエデンは考える。
確固たる感情による裏打ちのない状態で戦いを選ぶことが誤りなのだとしたら、自身の取った行動は間違っているといわざるを得ない。
惰性や成り行きなどとは呼びたくないが、意志と関係なく剣を手にせざるを得ない状況があったとして、それを何と呼べばよいのだろう。
剣を抜いているつもりで抜かされ、握っているつもりで握らされ、振るっているつもりで——。
「——ふり回されちゃってるって感じがしてさ、なーんか心配」
突然そんな言葉が耳に飛び込んでくる。
心を読まれでもしたような感覚に、エデンは驚きと焦りの色を浮かべて声のした方向を振り返った。
視線の先、宿の裏口にあったのは両手を顎にあてがうようにして座り込むマグメルと、大きな籠を抱えてその傍らに立つアリマの姿だった。
声の主はマグメルで、彼女はエデンが振り向いたことを見て取って安堵の微笑みを浮かべていた。
「やーっと気づいてくれた」
「——二人とも、いつから見てたの……?」
「ずっといたよ。何回も呼んだけどなかなかこっち見てくれないだもん、だから待ってたの。エデンが気づいてくれないとアリマちゃんがお仕事できないからさ」
頬杖を突いたまま言って、マグメルは傍らのアリマを見上げる。
その視線の先を追ったエデンは、そこでようやくアリマの抱えた籠の中身が洗濯を済ませた布類であることに気付く。
続けて周囲を見回し、物干し場として使われる裏庭を一人で占拠してしまっていたことに対して謝罪の言葉を口にした。
「ご、ごめん……!! 場所——!!」
「ううん、大丈夫だよ。わたしは終わるまで待ってようと思ってたし、気にしなくていいから!」
「でも……そ、そうだ! 自分も手伝うよ、邪魔しちゃったおわびに!」
洗濯籠を抱えたまま大きく左右に首を振って答えるアリマに対し、エデンは握っていた剣をおぼつかない手つき鞘に納めながら言う。
「そんなのいいから! エデンは剣士さまなんだから、気の済むまで剣術のお稽古してていいんだよ!」
「……そ、それは——また今度でいいんだ」
これ以上無暗に剣を振り回したとして、確たる答えが出るわけでも一足飛びに強くなれるわけでもないことはわかっている。
だがまがりなりにも剣士として振る舞っている以上、行き場のない気持ちを発散するために振っていただけなどとは言えようはずもない。
「あたしも手つだう!」
「じ、自分にやらせてほしい!」
言って立ち上がるマグメルに向かってうなずきを送り、エデンはアリマの手にした籠に手を伸ばす。
「……あ! 結構重いよ——!!」
忠告されたときにはすでに遅く、エデンの身体は想像の数倍はあろうかという洗濯籠の重みに耐え切れずに深く沈み込んでしまう。
地面に腰を突きつつも、籠だけは引っ繰り返さないように何とか死守してみせた。
「……ほ——本当だ」
その後は三人で協力して干し物を行う。
軒下に収納されていた大小の物干し台を裏庭に引き出しては、籠の中の拭布や卓布を一枚一枚引っ掛けては布挟みで留めていく。
アリマが洗濯物を振りさばく音が澄んだ朝の空気に響き渡る。
エデンもそのまねをしようと試みるが、彼女のような切れの良い音を出すことはできなかった。
「よし——!」
腰に両手を添えたアリマは、干し終えた白い布類が幾枚もの旗のように棚引く裏庭を満足そうに眺めていた。
次いで頭上に顔を向けた彼女の視線を追ったエデンは、その見上げる対象が一本の樹木であることを見て取る。
宿の裏庭に生える数本の樹々の中でもひときわ背の高いそれは、恐らく宿の屋号の由来になったであろう林檎の樹だった。
「……よし」
アリマはもう一度呟くように言うと、エデンとマグメルに向き合って感謝の言葉を口にする。
「二人ともありがとう、助かっちゃった! 次はみんなが起きてくる前に、朝ご飯の支度!!」
「それなら自分も手伝——」
「だーめ! 次はあたしの番! エデンはあたしにつきあうの!!」
エデンが手伝いを申し出つつアリマの元に足を進めようとしたところ、やにわに後方から手を取ったのはマグメルだった。
振り返ったエデンは「ね?」と小首をかしげてねだるような視線で見上げる彼女を、若干困惑気味に見下ろす。
エデンとマグメルを微笑ましげに頬を緩めて見詰めると、アリマは「また後でね」と言い残して宿の中へと戻っていった。
中庭から宿の中へと戻っていくアリマを見送ったのち、エデンはマグメルにその言葉の意味するところを尋ねる。
「付き合うって……どこに——?」
「——いいからついてきて」
質問に答えることなく、マグメルは再びエデンの手を取って強引に足を進める。
建物を迂回して宿の正面にたどり着いたところで、向き直った彼女は「いひひ」といたずらっぽく笑ってみせた。




