第二百四十話 補 習 (ほしゅう)
風呂を用意してもらうまでの間、エデンは二階の部屋で過ごすことにした。
シオンも一緒に部屋に戻り、マグメルも団員たちを広間に残して後に続く。
部屋に戻って早々に寝台に飛び込んだマグメルは、一分と経たないうちに寝息を立て始める。
眠った彼女に布団を掛けると、エデンも寝台の上に腰を下ろした。
シオンはいつものように文机に掛けて手帳を開いていたが、筆が乗らないのか一文字書いては休みを繰り返すうちに結局筆を置いてしまう。
この状況であれば邪魔になることはないと考え、エデンは窓の外を眺める彼女に声を掛けた。
「——さっきね、アリマから聞いたんだ。この村の人たちにはケナモノを食べる習慣がないみたい。昔からずっとそうなんだって」
「はい——」
背を向けたまま小声で応じたのち、シオンは椅子の上で身をひねってエデンに向き直る。
「——他には……その他には、何か聞いていますか?」
「他?」
どこか思い詰めたような表情で尋ねる彼女の言葉に、エデンは先ほど交わした二人との会話を思い返す。
「他には——ないと思う。——うん、それだけだよ。……ええと、明日はツェレンも一緒に歌を習うみたいで——」
「それは知っています。近くで聞いていましたから。それなら結構です」」
シオンはエデンの言葉を遮って言い、話を半ば無理やりに断ち切った。
どちらも口を開かないまましばしの時間は過ぎ、部屋にはマグメルの立てる寝息だけが小さく響く。
沈黙の中でかさりと乾いた音を聞いたエデンは、シオンが文机の上に置いた手帳の頁を繰るところを目に留める。
彼女は自らの書き記した文字の上を指先で軽くなぞりながら、おもむろに口を開いた。
「蹄人の中には、植物とそれ由来の食品のみを食物とする種が存在します。この村に暮らす蹄人の多く——アリマさんや彼女のお父上のような『岨人』はその代表といえるかもしれません」
「ソワビト——」
エデンは初めて耳にしたその種名を確かめるように口にする。
「はい、岨人はもともと人の寄り付かない高地や山岳地帯などに暮らしていた種です。実りの乏しい大地で粗食に耐える生活を送っていた彼らは、草本や木本からでも生きるに足る十分な栄養素を賄うことができるような身体の造りをしています。寒冷地に起源を発するツェレンさんたち『穭人』も例外ではなく、今挙げた二種以外に属する村人たちも恐らくは植物を主食とする種でしょう。本来であれば同種のみで寄り集まって暮らすのが常であり——」
そこでシオンは言葉を切ると、その頬にかすかに笑みを浮かべてみせた。
「——この話は以前にもしましたね。授業も……あれ切りになってしまいましたが」
久しぶりに彼女の笑顔を見たような気がして、エデンはわずかに戸惑いを覚える。
彼女の言うようにあの雨の日にシェアスールの面々と行き会って以降、勉強会が行われることは一度もなかった。
彼らと過ごすにぎやかな宵の一夜一夜が大切な時間であることは間違いないが、シオンとの静かな学びのひと時の大事さも改めて実感させられる。
「シオン、ええと……続きってわけじゃないんだけど、その——」
「貴方が知りたいと思ったそのときが知るべきときです。それに私も途中で投げ出すのは本意ではありませんから。何から始めますか?」
「……ありがとう。それなら——楽団のみんなのことが知りたい」
恐る恐る授業の再会を申し出るエデンに対し、シオンは二つ返事で応じてくれる。
エデンは眼を閉じてしばらく考え込んだのち、文机に向かう彼女を見詰めて自身の希望を伝えた。
エデンからの求めを受けたシオンは、アリマとツェレンの属する種が「岨人」や「穭人」であるように、シェアスールの団員たちが蹄人の中でも何と呼ばれる種であるかを語ってくれた。
見事な枝角が目立つインボルクは『桛人』の名で呼ばれる種であり、突き出た牙と扁平な鼻先が特徴のサムハインは『垈人』、頭部の側面から上方に向かって湾曲するように生えた角を持つベルテインのような種を『角人』と呼ぶのだと言う。
またルグナサートは嘴人の中でも『虚人』の名で知られる種であることも併せて教えてくれた。
種としての出自や特徴などをひと通り語り終えたシオンは手帳を閉じながら言う。
「——繰り返しになりますが、蹄人は集団を何より大事にする種です。シェアスールの皆さんが故郷を離れて旅暮らしをしているのにも何らかの理由があるのかもしれません。一見気ままに見える彼らにも、私たちと同じ旅の目的があって……」
シオンは言って手帳を机の上に置き、寝台の上で寝息を立てるマグメルを見やった。
「……彼女、マグメルさんにも私たちの知らない事情があるのでしょう」
「——うん」
シオンの言葉に、エデンもうなずきをもって応える。
それを聞いて思い起こすのは、あの夜「探しに来てくれたのか」と嬉々として問うたマグメルの姿だ。
その際の自身の返答を受けて残念がる彼女を思い出せば、心苦しさを覚えずにはいられなかった。
「おーい!! お風呂沸いたよ!! 早く入っちゃって!!」
二人の間に再びの沈黙が訪れたのを見計らったかのように、階下からアリマの声が響く。
一階からでも届く彼女の声に、寝台のマグメルが布団をはねのけるようにして上半身を起こす。
「お風呂!!」
叫んで身を起こすや否や、寝台から飛び下りた彼女は昨夜と同じように何も持たずに部屋を出ていってしまう。
目にも留まらぬ速さで飛び出していくその後ろ姿をぼうぜんと眺めていたエデンだったが、マグメルはばたばたと足音を響かせながら引き返してくる。
開け放たれた扉の縁から顔をのぞかせた彼女は、窓際のシオンに向かって小声で呼び掛けた。
「いっしょに入る……?」
「結構です。後ほど一人でいただきますので」
左右に小さく首を振って答えるシオンの声音からは、わずかだが優しげな色が感じ取れる。
「うん。わかった」
マグメルもはにかむような笑みでもって答えると、再び足音を立てながら一階へと駆け下りていった。
その夜はマグメル、シオン、エデンの順で湯を使わせてもらう。
エデンが入浴を済ませて部屋に戻ったときには、マグメルとシオンの二人はすでに眠りに就いていた。
それぞれが寝台を一つずつ占有しているため、エデンは床で眠ることを余儀なくされる。
湯上りで熱の残る身体を冷ますために文机に向かって窓の外を眺めていたところ、エデンはふと階下から聞こえてくる声を耳にする。
水音とともに響くそれはアリマのものであろう歌声だった。
昼間にマグメルから習ったであろう部分を、彼女は何度も繰り返し反復するように口ずさんでいた。




