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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第三章  吟遊楽団(がくだん) 篇   第三節 「旅人は憩いて調べを奏で」
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第二百三十七話  転 調 (てんちょう)

「——全く間の悪い男だな、君は」


「お兄さん!! そんな格好で食堂に入ってきちゃ駄目だって!! 裏から回って、裏から!!」


 インボルクが肩をすくめて言ったかと思うと、アリマは泡を食った様子でサムハイン元へと駆け寄った。

 彼女は土に塗れたサムハインの身体を、戸口に向かって押し出そうと躍起になっている。


「わ、わかりましたよ、わかりましたってば……!!」


「……仕方ないなあ、もう! 今からお風呂沸かしてあげるから裏で待ってて!」


 渋々といった様子で応じるサムハインに対し、両手を腰に添えたアリマは深々と嘆息してみせる。

 おずおずと戸口に引き返すサムハインの後ろ姿を見送った彼女は、今一度インボルクに向き合って言った。


「——団長さん、誘ってくれてありがとう」


 次に彼女はルグナサートのそばまで歩み寄り、自身の手を彼の翼に重ねて言う。


「黒い楽士さんも、素敵な音楽ありがとう」


「あなたと歌えて楽しかったです」


「うん、わたしもだよ」


 答える彼にそう応じ、彼女は最後にマグメルの手を取った。


「……ね、マグメルちゃん。よければ明日と明後日も歌——教えてくれる?」


「もちろん! ルグナサートもつきあってくれるよね?」


「ええ、ぜひご一緒させてください」


 おずおずと切り出した彼女に対し、マグメルは満面の笑顔で答える。

 ルグナサートもまた十五弦琴を爪弾きながら、マグメルの言葉に賛意を表していた。


「ありがとう。……うん、楽しみにしてる」


 もう一度マグメルの手を強く握り締め、踵を返したアリマは広間の奥に向かって足を進めた。

 風呂場に向かう途中でふと立ち止まったかと思うと、アリマはエデンたちの元へと引き返してくる。


「もしよかったらなんだけど——」


 そう言って彼女が視線を向けたのは、エデンの傍らに立つシオンだった。


「——シオンちゃんも一緒にどうかなって。歌のお稽古。一緒に教えてもらわない?」


「私が——ですか……?」


 突然の提案にやや面食らった様子を見せるシオンだったが、すぐに普段と変わらぬ落ち着いた表情に戻る。

 うなずくアリマに対し、シオンは躊躇することなく言い切った。


「私は結構です。歌も音楽も、私には無用の長物ですから」


「……う、そっか! 残念! じゃあ、また夕食用意できたら呼ぶね!」


 アリマは彼女の歯に衣着せぬ物言いに若干ひるんだようなそぶりを見せたが、すぐに表情を切り替えていつも通りの快活な笑顔を浮かべる。

 足早に風呂場へと向かう彼女を見送ったのち、シオンに向かって訴えかけるように声を荒らげたのはマグメルだった。


「ねえ、シオン! 今の言い方よくない! 目つきだけじゃなくて話し方もきついんだ!!」


「私は自身の考えを簡潔に述べたまでです。仲良くしたいのであれば、お二人でご自由にどうぞ。私は——長居する予定のないこの地で無用な交流をするつもりはありません」


 両手で卓を打って言うマグメルを、シオンはその言葉通りの射貫くような視線で見返す。

 シオンはマグメルに背を向けると、「それではお先に失礼します」と言い捨てるように言って一人足早に二階の部屋へと引っ込んでいった。


「んー、もう! なにさ!! なかよしの方がぜったいに楽しいのに——!!」


 マグメルもマグメルで不服そうに呟き、卓上に頬杖を突くようにして座り込んでしまう。



「え、ええと……その——」


 シオンの去った方向と卓に突っ伏すマグメルを交互に見やっていたエデンは、宿の戸口に立って何やら言葉を交し合うインボルクとサムハインの姿を認める。

 決して耳をそばだてていたわけではない。

 なかったが——いつになく深刻な表情の二人を目にし、知らず知らずそちらに意識が向いてしまっていたのは事実だった。

 インボルクに耳打ちするようにささやいたサムハインの言葉から、エデンは不穏な単語を聞き取る。

 聞き間違いでなければ、その口から放たれたのは確かに異種の名だった。


 今すぐに問い質したい気持ちではあったが、シオンの様子が気になって仕方がない。

 機嫌を損ねてしまったマグメルのことは団員たちに任せ、まずは二階へ戻ったシオンを追うことにした。

 扉を開けて部屋の中に踏み入ったエデンは、窓際の文机に腰掛ける彼女の姿を認める。

 書き物を始めようとしていたことは想像に難くなかったが、手元の手帳は閉じられたままだ。

 本人も窓の外に視線を向けたまま、動く気配を見せなかった。


 エデンがその名を呼ぼうと口を開きかけた瞬間、先を取って言葉を発したのは彼女のほうだった。


「貴方も私に歌えと仰るんですか」


「い、いや……そういうわけじゃ——ないけど」


「けど——何ですか?」


 答えるエデンの言葉尻を取るようにシオンは問い返す。


「せっかくだから、その……一緒に歌ってみるのもよかったんじゃないのかな……って。アリマも楽しそうだったし、だからきっとシオンも——」


「楽しいから何なのですか? 私が楽しい思いをしたからといって、何かが変わりますか?」


 エデンの言葉を遮ったかと思うと、振り向いたシオンは語気を強めて続ける。


「これは情緒の問題などではありません。故郷を発つと決めたあの日から、私は貴方の智になると誓いました。こうして——日々知識と見聞を広め、貴方の行く先を示す道標でありたいと願ってきました」


 シオンは言いながら手帳の表紙に触れる。


「歌で——」


 いら立った感情を静めるかのように、彼女は肩を大きく上下させて深呼吸をする。


「——誰かを救えるとでも? 何かを変えられるとでも? それなら私だって幾らでも歌います」


 言い捨てるように口にした彼女は再び窓の外へと顔を向ける。


「……私、少々ふてくされていますので。時間をください。少し時間をいただければ折り合いもつくはずです」


 エデンに背を向けたまま言うと、シオンはそれ切り口を閉ざして黙り込んでしまった。

 彼女の意向を優先し、この件についてそれ以上の言及は控えるという判断をエデンは下す。

 自身は自身で荷物を広げ、確認のまね事をしながら時間が過ぎるのを待った。

 心のどこかで扉を勢いよく開け放ってマグメルが飛び込んでくることを期待していたが、幾ら待っても彼女が戻ってくることはなかった。

 無意味な荷物の出し入れを何度か繰り返したのち、今度は手持ち無沙汰に剣に触れる。

 納刀の際の小さな鍔鳴りにシオンがかすかに反応を示すのを横目に見て取り、エデンは荷物を寝台の脇に置いて立ち上がった。


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