第二百二十九話 微 睡 (まどろみ)
「——入るよ」
中から返事はなかったが、エデンはそっと扉を開けて部屋へと足を踏み入れる。
部屋の中に入ってまず視線を向けたのは窓際に設えられた文机だった。
書き物をするのであれば、そこ以上に適した場所はないからだ。
だが文机の前にシオンの姿はなかった。
「あれ……?」
呟いて部屋の中を見渡したエデンは、寝台の上にうつぶせに横たわる彼女を認める。
荷物は足下に投げ出されるように放置され、書き物をするどころか手帳を取り出した形跡すら見当たらない。
自身とマグメルが部屋を出た直後、そのまま寝台に倒れ伏したのではないかとさえ思えるその姿には軽い混乱さえ覚える。
何かあったのではと寝台近くに寄ったエデンは、その身体が規則正しく上下していることを認めて少しだけ安堵した。
さらに違和感を抱いたのは、その顔に掛けられたままの眼鏡の存在だ。
普段であれば寝る前には必ず外すはずの眼鏡を掛けっ放しにしたまま、彼女は寝息を立てている。
「シオン——?」
名前を呼んでみるも、返事はない。
「まとめることがあるって——あ……」
呟くように言ったところで、エデンはふいに一つの考えに思い至る。
共に自由市場を発って以来、旅の中で疲労の色を見せ始めたシオンの身体を気遣ってきたつもりだった。
ローカに負担を強いていたことに気付けなかったときのようなまねは、二度と繰り返すまいと固く誓っていたからだ。
十分な休憩を入れることを、歩調を緩めることを提案してきたが、彼女はそれをかたくなに受け入れようとしなかった。
少し考えれば、シオンが自身の体調を理由に旅を遅らせることを許せる性格でないのはわかったはずだ。
加えて就寝前に授業の時間を割いてもらったていたことも、彼女に疲労を蓄積させた原因の一つだろう。
危険に備えて常に気を張っていた彼女は、眠りも浅かったに違いない。
異音を聞き取れば即座に飛び起きて異変を伝えてくれた彼女が、あれほどの騒ぎの中で眠り続けていたことが、その心身の消耗の度合いをつぶさに物語っていた。
「もしかして——」
エデンの頭をもう一つの考えがよぎる。
思い返してみれば、マグメルが「つかれた」「休みたい」と駄々をこね始めたのもあまりに唐突過ぎる。
ひとしきり騒いでインボルクからこの集落へ進路を取る許可を取りつけた後のマグメルは、まったく疲れたようなそぶりを見せるなかった。
仮にマグメルが、自ら言い出せないシオンに代わって疲労を訴えたのだとしたら。
安心して休める状況を作るため、彼女を部屋に一人にしたのだとしたら。
そう考えれば、マグメルのほうが自身などよりもよほどシオンの本質を理解していることになる。
「マグメル……君は——」
「ん?」
振り返ってその顔を見詰めるエデンに何食わぬ顔で応じたのち、彼女はシオンの眠る寝台の脇にしゃがみ込んだ。
「ねてるね」
マグメルはそう言って人差し指でシオンの頬をつつく。
「——へへへ、ねてるときはかわいいんだ」
吐息交じりに「ん……」と漏らすシオンの顔をのぞき込みながら、マグメルは「ふふふ」と愉快そうな笑みをこぼしていた。
「君はシオンのために——」
「いいじゃん、すんだことはさ」
マグメルはエデンの言葉を受けて答え、眠るシオンの顔を見詰めながら普段と変わらない調子で続ける。
「いつもならそういうのはインボルクの役目なんだけど、なんか今回は意地はっちゃって! ……おかしいの!」
彼女が腹立たしげに声を尖らせたためだろう、シオンは小さな声を漏らして身をよじった。
「んん——」
「あ……起こしちゃった——!」
マグメルは指を引っ込め慌てて自身の口をふさいだが、時はすでに遅く上体を起こしたシオンはうっすらと目を開いていた。
「ここ……どこ——」
気だるげな声で言い、掌で口元を押さえて小さなあくびを一つ放ったかと思うと、シオンはいまだ眠りから覚めやらぬ様子で呟く。
「——私、何を……今は——」
緩慢な動作と焦点の定まらない視線で周囲を見回したのち、彼女は外をうかがおうと窓に向かって首を伸ばした。
「——もう朝——ですか……? せん——」
そう言いかけたところで、彼女ははたと口をつぐむ。
次いで寝台の脇から見下ろすエデンと屈み込むマグメルの姿を認めると、徐々に状況がのみ込めてきたのか、シオンは声を震わせて言った。
「お、お二人とも……!? こんなところで何を……何をしているのですか——!? ま、まさか……!?」
シオンは取り乱した様子でエデンとマグメルを交互に見やり、はじかれたように叫んで飛び起きる。
足下から引き寄せた布団を頭まで被ると、隙間から顔をのぞかせた彼女は恐る恐ると言った口調で尋ねた。
「……み——見ていたんですか……? 私のこと……ずっと」
「ち、違うよ! い……今、ちょうど戻ってきたところだから!」
上目遣いで問うシオンにエデンが慌てつつ答えれば、布団の隙間からのぞく彼女の顔にわずかながら安堵の表情を浮かぶ。
「でも……気付けなかった。シオンが——その……眠り込んじゃうくらい疲れてたなんて——」
「——ち、違います! 違うんです! 少しだけ仮眠を取ろうと思っただけで……結果不覚にも眠り込んでしまったと——はい……」
エデンの言葉を遮って言うシオンだったが、語尾に従うに連れて段々とその声はか細くなり、最後には今にも消え入りそうなささやき声になっていた。
「自分が至らなかったんだ。ローカだけじゃなくてシオンにも——」
「そうじゃないんです! ですから、少しだけ仮眠を……」
再びエデンの言葉に割り込むようにして言ったのち、シオンは布団をかぶったまま深くうつむいてしまう。
エデンもこれ以上彼女に何と声を掛けていいかわからず、ただうろたえることしかできなかった。
不意に訪れた沈黙を破ったのは変わらず寝台の脇に屈み込んでいたマグメルで、薄笑いを浮かべた彼女は布団をかぶったシオンの顔をのぞき込む。
「よだれ出てるよ」
「う——嘘です……!」
そう言ってマグメルはシオンの口元を指先で指し示す。
シオンは慌てて自身の口元を覆い、確かめるように手で左右に拭ってみせた。
「で、出てないじゃないですか!?」
食って掛かるシオンに向かって「へへ」とからかうような笑みを浮かべたマグメルは、次いでその目元を示しながら指摘する。
「めがね、ずれてるよ」
「あ、貴女はまたそんなことを——! もうだまされませんから……!!」
言ってシオンは布団をはね除け、寝台の上で身を起こす。
口を真一文字に結んですねたようにそっぽを向く彼女だったが、マグメルの言う通り、その眼鏡は顔の中央から大幅にずれていた。




