第二十二話 執 心 (しゅうしん)
「どうした。調子が優れないように見えるが」
ふとすると胸の内に現れる少女の影を打ち払うように十字鍬を振るっていた少年は、後方から聞こえる声に手を止める。
振り返って見上げた先にあったのは、顔の高さまで角燈を持ち上げたイニワの姿だった。
「調子は——うん……」
曖昧に言葉を濁す。
昨夜一睡もできなかったことが後を引いており、とてもではないが本調子とは言えない状態で作業に当たっていたのは事実だ。
あくまで自己の都合でしかない体調の不良を表に出さないよう努めていたつもりだったが、優れた洞察力の持ち主であるイニワに対して隠し通すことはできなかったようだ。
「……昨日、あんまり眠れなくて」
不調の原因を睡眠の不足に押しかぶせるが、理由は当然それだけではない。
寝不足以上に、昨夜起きた出来事の全てが心を思い悩ませる。
よく似た姿をした少女に出会ったこと。
彼女に気を引かれる自身を見詰めるアシュヴァルの視線と語られた言葉、それらを思い出すと心中穏やかではいられなかった。
坑道に十字鍬が岩を打つ音が響く中、少年の言葉を受けたイニワが言う。
「おれはずうずうしくもこの現場を預らせてもらっている立場であり、働く皆を守るという義務を有している。もちろんおまえも含めてだ。何度も伝えたが、山では一人の不注意が重大な事故を呼び込む。わずかでも不安や気掛かりがあるのならば今日のところは帰れ」
「帰る……」
「そうだ。帰って宿酔でうなっている同居人の様子でも見てきてやったらどうだ」
イニワの言う同居人とはアシュヴァルのことだ。
今も苦しんでいるのだろうかと、寝台の上の彼の身を案ずる。
帰途は「酔いが覚めた」と口にしていたアシュヴァルだったが、朝になって目覚めた際の表情はこれまで見たことがないほどに憔悴しきっていた。
イニワは身体面の不調だけでなく、それ以外の心配事を抱え込んでいることまで見抜いているのかもしれない。
しばしの逡巡ののち、左右に首を振って働き続ける意志を表明する。
もちろん気掛かりがないわけではなかったが、働きに出向くように勧めたのは当のアシュヴァルだったからだ。
「……ううん、大丈夫。ちょっとだけ外の空気を吸わせてもらって——そうしたら、もっとちゃんとやるよ……!」
「わかった。変わりがあればすぐに言え」
イニワは承諾の意を込めてうなずき、自らの持ち場へと戻っていった。
いったん坑道の外に出ては、両手を広げて深呼吸をする。
清新な空気を吸って胸の中身を入れ換え、再び坑内に戻ったのち、イニワに対して仕事に戻る旨を告げる。
そして坑内に終業の笛の音が響くその瞬間まで、次々と湧き上がる迷いや悩みを振り払うかのように、固く握り締めた十字鍬を無心で振るい続けた。
仕事を終えたのちは普段よりも手早く水浴びを済ませ、日当を受け取って一人酒場へと向かった。
日当は昨日の銀貨一枚から銅貨七枚に戻っていたが、今日の働きぶりを鑑みればやむなしと思える。
昨夜の出来事がなければもっと気落ちしていただろうが、頭の中は仕事よりも別の件でいっぱいだった。
今朝のこと、結局寝付けないまま夜明けを迎えて目にしたのは、寝台の上で苦しげに頭を抱えるアシュヴァルの姿だった。
急病かと不安と焦燥を覚えるものの、アシュヴァルは「飲み過ぎただけだ」と説明する。
水を欲しがる彼のために急いで裏庭の井戸へ走り、くんできたそれを水飲みに移して手渡した。
ひと息に水をあおったアシュヴァルは、両手で頭部を抱えるようにしてうずくまる。
「今日は休みにするから、イニワの奴に伝えておいてくれ」
背中を向けて寝台に横たわったまま口にする彼に、少年は自身も仕事を休む旨を伝ようとする。
だがアシュヴァルはそれを遮る形で「お前は行けよ」と口にし、それでも素直に引き下がろうとしないとみれば、追い打ちをかけるかのように続けた。
「俺のことは心配しなくていい。お前は自分のことだけ考えてろ」
そう言われてしまっては引き下がるより他なく、鉱山へ向かう支度を始める。
いつか疲労で倒れた際にしてもらったことを思い出し、背中を見せて丸くなるアシュヴァルに向かって酒場で食事を買って帰ることを告げる。
聞こえるか聞こえないかの小さな声で、彼は「頼む」と答えた。
せめてもの気持ちと、枕元に水差しと水飲みを用意し、少年は部屋を後にしたのだった。