第二百二十話 独 奏 (どくそう)
楽器よりも重い物、彼の言う重さとは何も物質的な重さだけを指しているわけではないのかもしれないとエデンは考える。
楽器よりも重い物を持ったことがない、持ちたくない、持たせたくない——それが労働を避けるための方便などではなく、剣を捨てて生きることを選んだインボルクの信条なのだとしたら、その度量を大きく見誤っていたことになる。
ベルテインについても全く同じで、戦うことに対する向き不向きを姿形や身体の大きさを理由にして短絡的に判断してしまった。
「少女が言っていたろう、君たちには君たちの旅の目的があると。同じように僕たちにも僕たちの目的と、それを成し遂げるためのすべがある。僕は剣を持たないが——」
そう言ってインボルクは、エデンの手にした剣を指し示しながら言い切った。
「——君が剣を持つことを否定もしない」
そこでエデンは、ようやく自身が剣を抜き放ったままであったことに気付く。
不慣れな手つきで慌てて刃を鞘に納めるエデンを待って、インボルクは飄々として捉えどころのない瞳でその顔を見据えた。
「剣を持たない僕から君へ一つだけ。——そうだな、おせっかいな君に贈る僕からの余計なお世話だとでも思ってくれたまえ。
いいかい。譲れない何かのために戦う、大切な誰かを守る。それはそれは美しい言葉だ。妙なる調べに酔いしれてしまいそうになる。だが気を付けなければならないのは、耳障りのいい台詞には必ず裏があるという事実を知ることだ。戦うも守るも言い換えれば——」
エデンはインボルクの顔を見上げ、その口から次に放たれる言葉を待った。
もしもそれが自身の脳裏に浮かんだ言葉と同じだったならと考え、エデンは思わず息をのむ。
インボルクはエデンの思考を見透かしでもしたかのように、片頬に薄笑いを漂わせて言葉を続けた。
「——そう、殺す——さ」
「ころ……す——」
改めて口に出すその言葉の重みに、エデンは押しつぶされそうになる。
「剣を手に戦うとは、守るとはそういうことだよ。守るも殺すも、突き詰めれば行き着くところは同じさ。だが勘違いしないでくれたまえよ。重ねて言うが、僕はそれが悪だ、罪だ、不浄だと、とやかく言うつもりは毛頭ない。日々の糧としてケナモノの肉を食い、命を永らえるために異種を狩る。それらは生きとし生けるものの習いであり、未来に命をつなぐための当然の営みだからね。しかしだ——」
彼はそこでいったん言葉を切り、首から提げた楽器——手風琴に触れる。
「——それ以上を望んでしまうのも、あらがえない人の性というやつだ。うまいものを食いたい、美しいものに触れたい、良い音楽を奏でたい。人の抱くそんなぜいたくな望みが、人の持つ技術や芸術を磨き上げ、研ぎ澄ませ、さらなる高みへと飛躍させてきたのさ。君のその剣と同じで、僕らの持つ特殊な楽器も異種殻があって初めて作ることのできる得難い道具だ。剣を手にする者たちがいかに効率的に斬るかを突き詰め、その技術を錬磨していくように、僕らもまた奏でる音に工夫と技巧を重ねてきた。しかしだ、人を襲う異種の存在なくして音楽を楽しむことすらできないとは、何とも皮肉なものじゃないか。
生きるには無用の長物かもしれないが、僕らは音楽を捨てられないんだ。音楽のない世界があったとするなら、何と味気ないものか。僕からすれば、そんな世界に価値はないね。しかしながら好き好んで武具を握ったどこかの誰かが異種を狩ってくれるからこそ、僕らはそれを手にせずとも済む。こうして好きな楽器だけ手にしていれば済むのだから、剣を握った君が聖なる殺しを担ってくれるというのなら僕は感謝するばかりさ」
インボルクはそこまで話すとやにわに真顔に戻り、わずかに自嘲を含む口ぶりで呟いた。
「音で語るべき楽士の身で、無粋が過ぎたようだね。今話したこと、そっくり忘れてもらって構わない」
言って身をひるがえし、彼はエデンに背中を向けたまま告げる。
「——大いに悩みたまえよ、少年」
そう言い残すと、立てた人さし指と中指の二本を頭上で振りつつ、インボルクはその場を後にした。
インボルクが去ったのち、ひと呼吸置いてエデンも皆の元へ戻る。
すでに団員たちは休憩を終えて出発の準備に入っていたが、シオンだけが一人樹の幹に背中を預ける形で寝入ってしまっていた。
彼女を起こそうとするエデンを、横から差し出されたサムハインの手が止める。
「出発の直前まで寝かしといてあげてくださいな」
「……うん、ありがとう」
「本当なら移動中も車ん中で寝かしといてあげたかったんですけどね。さすがに今のままじゃあ、がたごと揺れて眠れたもんじゃねえですから」
エデンは礼を言って膝を突き、手から滑り落ちていた手帳と硬筆を拾い上げる。
サムハインはその具合を案じるように言うと、出発の準備に戻っていった。
わずかな時間とはいえ、寝られるときには寝かせてあげたい気持ちはエデンも彼と同じだ。
起こしてしまわないよう十分気を付け、エデンは手帳と硬筆を彼女の膝の上に戻した。




