第二百十九話 遁 走 (とんそう)
「少年よ、何か悩み事かな!? いや、皆まで言うな!! わかる、僕にはわかるぞ!!」
独り合点したかと思うと、腕を組んだインボルクは訳知り顔で言い放つ。
「善き哉、善き哉。深き懊悩こそが人の本髄、若いうちは大いに悩むといい!! その風雅に欠ける道具を気の済むまで振り回したまえ。満足したら戻ってくるんだぞ」
利いたふうなしぐさでもって繰り返しうなずいてみせた彼は、言うだけ言って背を向けてしまう。
「イ、インボルク!!」
「ん? 何かな? 僕は忙しいんだ。話なら手短に頼むよ」
「その、インボルクはもし楽団のみんなが危ない目に遭いそうになったときはどうする……?」
「妙なことを聞くんだな、君は」
呼び止める声を受けて足を止めたインボルクは、正面を見据えたまま答える。
次いで回れ右するかのように足から振り向いた彼は、尋ねたエデンに向かって逆に問い返した。
「僕にそれを聞いてどうするつもりなんだい?」
「それは……その、インボルクはずっとみんなと旅を続けてきたんだよね。だったら危険な場面も沢山あったんだろうなって。君はみんなの団長だから、そんなときはどうやって乗り切ってきたのかなって思ったんだ」
「ふむ、ではあれかな? 僕が戦うと答えたなら、君もその無粋極まりない道具を振り回して立ち向かうということかい?」
「ち、違うよ! そうじゃなくて、ただ聞いてみたくて——」
「逃げる」
「え……?」
「だから、逃げると言っているんだ」
あまりに潔い返答に、思わず彼の口にした言葉を繰り返す。
「に、逃げる……」
「ああ、そうさ。なんのために毎夜代わり番で見張りを置いていると思っているんだ。危機を嗅ぎ付けたのであれば時を移さず即刻逃げるのが僕らシェアスール流の身過ぎ世過ぎというやつさ。少年の言うように何度も危ない橋を渡ってきた。——違うな、橋ならばまだいいほうだ!! 悪漢や賊に狙われることなど日常茶飯事、件のよくわからない化生の類いに襲われた回数も十指に余る!! そう、綱渡りみたいな際どい状況に追い込まれることも間々あったというわけさ!!」
両手を広げて片足を上げ、均衡を保つようなしぐさを見せつつインボルクは続ける。
「そんなときは皆で一目散に逃げ出したものだ。家財一式失ったことだって一度や二度じゃないぞ。愛器は何がなんでも死守したが、先代の我が家を失ったときはさすがの僕もこたえたな」
「あ、あの車を……?」
現在は足回りに不調を来している箱車のことを、インボルクはおそらく彼自ら名付けたであろう長々しい名で呼んだ。
共に旅をする相棒とも楽団の一員ともたとえてみせたことが決して偽りなどではないことは、短いながらも一緒に過ごした時間が教えてくれている。
団員たちが箱車をどれだけ大事にしているか、よりどころにしているのかも見てきたつもりだ。
足を止めてしまったそれに対してついた「置いていく」という悪態も、決して本心でないと今ならばわかる。
たたえる表情の変化を見て取ったのか、インボルクは口の端に皮肉な笑みを刻みつつ口を開く。
「命あってのなんとやらさ。ともあれ生き延びることができれば夢も希望も後から付いてくるものだ。この手に楽器ひとつあれば、楽神は僕らを見放さない」
言って左右に頭を振り、自らの口にした言葉を打ち消してみせる。
「いいや、違うな。手を打ち、足を踏み鳴らし、喉を震わせたなら、どこであろうと生まれるのが音楽だ。楽器がなくとも身ひとつあればそれだけで十分。だから僕らは逃げるんだ。世界に果てがあるというのなら、そこまで逃げてやったって一向に構わないさ。どこまでだって逃げてやる。僕が小さなお嬢様を抱えたなら、あの大男が僕ら二人をまとめて抱え上げてくれる。小うるさいのも物静かなのも、なんのかんので付いて来てくれるだろうさ」
「戦おうって、思ったことはないの……?」
「言ってなかったかな? 僕は楽器よりも重い物を持つつもりはないんだ。剣、弓、槍? そんな野暮な代物、金輪際手にしようとも思わないね」
重ねての問いに、インボルクは苦笑交じりに肩をすくめて答える。
「じゃあ、ベルテインはどうなんだろう? その、すごく強そうだし……」
「君の目にはそう映っているのだろうね。しかしだ、ああ見えてあれは臆病で優しい男だ。僕以上に荒事を忌避している。重い我が家を牽かせておいて何を今更と思うだろうが、戦場に駆り立てるような愚を犯すつもりもない」
断固として言い切るインボルクに、エデンは自らの発言がどれほど浅慮であったかを思い知る。
「あ——」
「気を落とすことはないぞ。言っただろう、あれは優しい男だと。口やかましい某と違い、小さなことを気にするような玉じゃない」
つり上げた片頬に笑みを浮かべ、悄然と首を垂れるエデンを慰めるようにインボルクは言う。
「——ご、ごめん。君にも、ベルテインにも……」
「だから謝る必要などないと言っているだろう。繰り返しになるが、それが僕らの生きるすべなのだからね。真の幸福が克服できぬ苦しみの中にあるとするのならば、逃走の巧拙によってたやすく左右されるのが人の生。上手に逃げれば痛みも少なくて済み、毎日笑って過ごすこともできようものだ」
謝罪の言葉を口にしようとするエデンの顔先に指を突き付け、続く言葉を封じ込める。
あくまで明るく語る様子を前に、芝居じみた振る舞いの裏に隠された真意の一端を垣間見た気がした。




