第二百十二話 幕 裏 (まくうら)
「今日は慣れない力仕事で心身ともに疲れ切ってしまったぞ。昼前まで眠って出発はそれからにしようじゃないか!」
「あたしもさんせーい!」
雲の晴れてにわかに白み始めた空に向かって組んだ両手を突き上げ、インボルクは大きなあくびをひとつ放つ。
同意するように手を掲げたマグメルもまた、釣られる形で「ふわあ」とあくびを漏らした。
エデンら二人も含めて異を唱える者は誰もおらず、出発前にしばし休息を取る運びとなった。
とはいうものの、現在一行が足回りに異変を来した荷車とともにとどまっているのは大街道から外れた小さな街道の道脇だ。
近くに宿場町はなく、最寄りの宿泊小屋までもそこそこの距離があるとシオンが言っていた。
野宿を覚悟して背嚢の中から二人分の掛け布を取り出そうとするエデンに対し、不思議そうな表情で声を掛けたのはインボルクだった。
「何をしているんだ、少年」
「ええと、寝る支度をしようかなって」
「いいから付いて来たまえ」
インボルクは軽く言って顎をしゃくり、一人先に歩き出す。
「行くって、どこに……?」
「ほら、行こ行こ!」
腕を絡めるマグメルに促され、エデンとシオンも彼の後に続いた。
「紹介が遅れたが、彼もまた我がシェアスールの一員だ! 世話になった礼でも述べてほしいところだが、なにぶん無口なものでね。牽くほうも牽くほうなら、牽かれるほうも牽かれるほうということさ」
インボルクが差し伸ばした掌をもって指し示したのは、先ほどまでぬかるみに車輪を取られて足止めを食っていた箱車だった。
突き出た二本の轅の間、車体の前面に位置する足場に飛び乗ると、彼は扉を開け放ちながら朗々と歌い上げるように言った。
「君たちの救ってくれたシェアスールが最後の一人! その名も『スクーブ・トゥイニエ号二世』だ! ようこそ我が家へ! 歓迎するぞ、少年少女!」
扉が開け放たれたことで、社内の様相が明らかになる。
車は荷物を運ぶための道具でしかないと思い込んでいたエデンにとって、視界に飛び込んできた光景は衝撃のひと言だった。
箱車の内部には角卓と椅子、食器棚に衣装棚、小ぶりな暖炉までもが据え付けられている。
加えて奥側の両脇は二段式の寝台になっており、手狭ながらも四人分の寝所が確保されていた。
外側からも見えた側面の窓に加えて上部にも採光窓が設けられ、壁面には数対の燭台が並ぶ。
生活に必要な設備がひと通りそろった箱車の内部は、さながら小作りな居住空間だった。
「七人で過ごすには少々窮屈だろうが、雨風がしのげるだけで御の字だろう! 存分にくつろぐといい!」
「違いねえや。住めば都ってやつでさ。」
インボルクの言葉に同意しつつ、サムハインは運んできた調理道具類を寝台下部の収納に片付けていく。
「シオンはここね! あたしといっしょにねよ!」
マグメルは寝台の上段にひらりと飛び乗ると、縁から顔だけを突き出してうれしそうに言った。
「恩人たる少年を床で寝かせるわけにもいくまいな。誰か一人には貧乏くじを引いてもらうぞ。——いつものやつで決めようか」
言うが早いかインボルクは銀貨を一枚取り出し、親指の上に乗せたそれを回転を付けてはじき上げる。
落ちてきた銀貨を掌と手の甲で挟み込んだ彼に、サムハインは「裏」と告げる。
「じゃあ僕は表だ」
自信満々に言うと、インボルクはルグナサートに向かって「君は?」と尋ねる。
嘴人は表裏どちらとも宣言することなく、銀貨を挟み込んだインボルクの手を翼で覆った。
「見張りは私に任せてください」
「なんだ、詰まらん! 勝負しがいのない男だな」
「この時間の空気が好きなんです」
不機嫌そうにこぼすインボルクに穏やかな微笑みで応じると、ルグナサートは一人箱車の外へ出て行ってしまう。
気懸かりを覚えて車外に飛び出したエデンが目にしたのは、屋根へ続く梯子を一段一段確かめるように上るルグナサートの姿だった。
「み、見張りなら自分が……!」
「本人がああ言っているんだ。任せておけばいいさ」
言いかけたところで口をつぐんだのは、肩に何者かの手が添えられるのを感じたからだ。
振り返って目にした声の主はインボルクで、彼は屋根の上に腰を下ろすルグナサートを見上げて呟くように言った。
「心配することはない。色や形などという固定観念に捉われた僕らなどよりも、よほど際やかに世界が見えているのだろうさ。それにあそこは楽匠殿の指定席なんだ。ああしているときにいい曲が思い付くのだと」
「そ、そうなんだ。……うん」
妙に説得力のある言葉を受け、エデンは今一度屋根の上の嘴人を見上げる。
知らず掲げてしまった手を引っ込め「ありがとう」と声を掛けたのち、インボルクに続いて車内へと戻った。
「そ、そんなに寄ってこないでくださいっ……!!」
「えへへ、仕方ないじゃん! せまいんだからさ!」
上段の寝台では、身を寄せ合うようにして騒ぎ立てる二人の姿がある。
「あんまり騒ぎなさんなって!! お嬢も姉さんも!!」
寝転がったサムハインは上段の寝台の底面を足の裏で突き上げると、エデンに対してもう一方の下段を勧める。
「兄さんはそっち、ルグナサートの寝床を使ってくださいな」
「う、うん。でも……」
答えて出入り口近くの椅子に腰を下ろす巨躯のベルテインを見やる。
両脇に上下二段の計四台、よく見れば車内には四人分の寝台しかない。
硬貨投げで決める以前に誰か一人があぶれてしまうことは歴然だ。
そして楽団の面々の中で誰が寝台を得られないかと考えれば、自然と答えが見えてくる。
蹄人の車夫ベルテイン、彼の巨体を受け止めるには二段式の寝台は小さすぎるのだ。
送られる気遣いの視線に気付いたのか、彼は声を立てることなくにっと歯をむき出しにして笑う。
車内前方の角卓を側面の壁に沿わせてはね上げると、そこには彼が平臥してなお余裕ある空間が生まれた。
ベルテインが巨体を横たえるところを認め、エデンもまた下段の寝台に寝転がる。
通路を挟んだ隣側ではサムハインが大あくびを放ち、つい先ほどまでふざけ合っていた少女二人もいつの間にか静かになっていた。
あおむけになって上段を見上げれば、寝台の縁からインボルクの枝角がいかにも窮屈そうに飛び出ていた。
よほど相当に疲れていたのだろう、騒がしかった団員たちは横になるや即座に寝息を立て始める。
そしてだんだんと強くなっていく息差しが、寝息などというかわいらしい言葉で表せなくなるのも時間の問題だった。
雷鳴のような大いびきと激しい歯ぎしりが混ざり合って響く不協和音は、先ほど彼らが奏でてくれた麗しい音楽とは程遠い。
双方の不一致が妙におかしく感じられ、エデンは頭上を仰ぎつつ小さな笑いをこぼしていた。




