第二百七話 浅 酌 (せんしゃく)
「あたし、エデンとシオンのとなりにすわる!!」
言うや尻で押しのけるようにして無理やり隣に腰掛けてきたのは、裸身に綿布だけを引っ掛けたマグメルだ。
半ば強引に二人の間に身体を滑り込ませると、「えへへ」と上機嫌な笑みを浮かべてみせる。
相好を崩して見上げる彼女に対してエデンができるのは、ぎこちない微笑みを返すことだけだった。
「そうだ、あれだ! あれがあるじゃないか! あれを持ちたまえ! ここぞというときのために残しておいたとっておきのあれだよ!」
出し抜けに声を上げたのは枝角の男だった。
掲げた指をぱちんとはじき、声高らかに宣言する。
「あれ……?」
呟くエデンの目の前でむくりと身を起こしたのは巨躯の男だった。
立ち上がった彼は巨体をのそのそと揺らし、荷車に向かって歩き出す。
杓子でもって鍋を混ぜる牙の男と火の様子を見守る嘴人が無言を貫く中、巨躯の男は酒樽一本と幾つかの酒杯を手に戻ってきた。
枝角の男が受け取った三つの酒杯のうちの二つを牙の男へと投げ渡せば、杓子を手にしたまま片手で器用に受け止めた彼は一方を嘴人の翼に握らせた。
四人に酒杯が行き渡ると見るや、巨躯の男は樽を傾けて空の器に中身を注いで回った。
「少年少女、君たちもどうだい?」
なみなみと溢れんばかりに酒の注がれた酒杯を手にした枝角の男は、もう一方の手に握った小ぶりの杯を差し出しつつ問う。
シオンと顔を見合わせてうなずき交わしたのち、エデンは左右に小さく首を振って男からの申し出を辞退した。
「勧めてくれてありがとう。自分たちは遠慮しておこうかな」
「あたしもいらなーい! お酒苦手!!」
続けてマグメルが眉間に皺を寄せて舌を出せば、口の端を持ち上げた枝角の男はからかうような口調で言う。
「お子様にはわからなくて当然だよ。人生の機微を穿つとともに、いつかは酒の味もわかるようになるだろうさ。早く大人になりたまえよ」
男たち四人で円陣を組むと、枝角の男は手にした酒杯を高々と掲げる。
「親愛なる同輩よ、今こそ友情の杯を酌み交わそうではないか!! そう、過ぎ去りし日々と懐かしき約束のために!!」
「——過ぎ去りし日々と懐かしき約束のために!!」
枝角の男の音頭に合わせ、三人も酒杯を掲げて唱和する。
手と翼を腰に添えてぐいと酒杯をあおり、ひと息で中身を飲み干してしまうと、四人は空になった酒杯に代わる代わる酒を注いでは、からからと高らかに笑い合っていた。
「もうー、お酒のむといつもこう! 何がそんなに楽しいんだか」
子供のようにはしゃぐ四人を見詰め、唇を尖らせたマグメルが不服げに呟く。
酒杯片手に鍋を確かめに戻る牙の男に対し、座り込んだ彼女は催促の言葉を投げ掛けた。
「ねえねえ、まだー?」
「もうすぐ出来上がるんでおとなしく待っててくださいな」
「んー!! さっきからすぐすぐって、ぜんぜんすぐじゃないじゃん! もう待てないー!! すぐ食べるのー!!」
「だからまだだって言ってるでしょうに!!」
牙の男の腕を激しく揺さぶる彼女の気持ちは十分過ぎるほどよくわかった。
浅ましい話だが、湯気とともに鍋から立ち上る香りは食欲を刺激してならない。
雨宿りの際に食事は済ませてはいたが、漂ってくる香りに腹の音を抑え込むことはできなかった。
「危ないんでどっか行ってなさいって!! お仲間に食い意地の張った娘だって思われちまってもいいんですかい?」
甲を向けた手で追い払われ、マグメルは不満げに頬を膨らませて「むー」と小さなうなりを上げる。
ぐらぐらと煮立つ鍋と牙の男から離れてシオンの目の前まで回り込んだマグメルは、彼女の膝に項垂れ掛かるように身を預けてしまった。
「な、何を……」
膝の上でだらしなく脱力するマグメルを、シオンは困惑をあらわに見下ろす。
「ちょ、ちょっと、離れてください……!」
「やだ」
「やだじゃありません! 早くどいてくださいっ!」
左右の足をばたばたと揺らして振り放そうと試みるも、マグメルは膝の上に居座ったままかたくなに動こうとしない。
途方に暮れたように固まってしまったシオンだったが、抵抗を諦めたのか深々と肩を落として嘆息すると、行き場を失ってさまよわせていた手をマグメルの頭に乗せた。
水気を吸った髪を指で梳かれたマグメルは、シオンの脚に顔をうずめるようにして「うひひ」と頬を緩ませる。
向こう意気の強いシオンがいいように踊らされ続ける様を目にし、エデンは思わず笑みをこぼしていた。
「……何がおかしいんですか」
「ご、ごめん。なんでもないよ」
鋭いまなざしでにらみ付けられ、目の前で手を振って応じる。
顔は背けつつ横目でそっと様子をうかがえば、人懐こい笑みを浮かべて足に顔を擦り寄せるマグメルの頭を、シオンは雑な手つきでなで付け続けていた。
他方、枝角の男はといえば、一人調理を続ける男をよそに巨躯の男と肩を組むようにして酒をあおっている。
背丈の差から腰と膝を折る巨躯の男はいくらか窮屈そうだ。
酒杯を突き上げて笑い合う彼らから視線を移すと、物干しに掛けられた皆々の衣服の様子を確かめる嘴人の姿が目に映る。
満足そうにうなずいて火の元に戻った彼は、ちびちびとなめるように酒を味わい始めた。
「よろしければ少し試してみませんか?」
「え……? あ、その——」
じっと見詰める視線を感じ取ったのか、嘴人は翼に握った酒杯を差し出して言う。
突然の申し出を受けて返答に窮するエデンを前にして、嘴人は愉快そうに表情を和ませる。
「じゃ、じゃあ、少しだけ」
「エデンさん」
「ほ、ほんとにちょっとだけだから」
マグメルを膝の上に乗せたシオンの忠言に、親指と人さし指をつまみ合わせて応じる。
焚火を回り込んだエデンは両手を差し出して酒杯を受け取り、まずは中身をのぞき込む。
次いで鼻を当てて香りを確かめれば、鉱山の酒場を手伝った際に繰り返し運んだ麦酒とよく似ていた。
「彼の故郷に伝わる珍しい酒です」
緩く湾曲した嘴が、陽気に騒ぐ枝角の男に向けられる。
「世間に広く知られる麦酒は、啤酒花の蔓に咲く毬花と呼ばれる手毬状の部位から造られます。一方で彼の故郷には毬花の代わりに栄樹の花から酒を造る製法が古来より門外不出の秘伝として継承されてきました。霊酒とも称されたこの酒を造る製法ですが、秘密を聞き出そうとした時の権力者によって最後の継承者の命が奪われたことにより、永久に失われてしまったのです」
「エイジュ……?」
「本で読んだことがあります。主に荒野に分布する低木です。花は小柄で白、紅、紫——」
そらんじるシオンだったが、何かに気付いたのか不意に口をつぐむ。
「あたしも知ってるよ! 見たことあるもん!! こんなふうにね、野原一面にわーって咲いてるの!!」
シオンの膝の上で寝返りでも打つかのように身を返し、掌を頭上に掲げてマグメルが言う。
「痩せた大地に乱れ咲く可憐な花々、刻苦にも負けぬ健気な姿に詩人たちは博愛と孤独の象徴を担わせたのでしょうね。古の人々が歌や詩に込めた心象の数々は千紫万紅の色彩を表情豊かに想起させてくれます」
嘴人が詠ずるように言って笑みを向けたのは、失言を悔いるかのごとく顔をうつむけてしまっていたシオンだった。
「……貴重なものなんだ。ほ、本当に自分が飲んでいいのかな?」
「これもまた好機というものです。貴方に飲んでもらえるのなら、酒も喜んでくれることでしょう」
揺らぐ水面を見下ろしつつ尋ねるエデンに、嘴人は穏やかな口調で答える。
「……じゃあ、うん」
恐る恐る酒杯を傾け、唇からひと飲みだけ流し込む。
じわりと広がる苦みに思わず顔をしかめ、「う」と小さなうめき声を発する。
口内で転がすように味わってみるが、希少さに見合った食味を感じることはできなかった。
先ほどの枝角の男の言葉ではないが、酒を楽しむにはまだ経験が足りないのかもしれない。
「その、ありがとう。自分にはちょっとまだ早いかな」
「いつかまたご一緒できるといいですね」
わずかに口を付けただけの酒杯を礼とともに返却する。
嘴人は嘴の端を緩めて微笑むと、黒色の翼で抱えた酒杯を大切そうに傾けた。




