第二十話 鈍 色 (にびいろ)
いつものように酒場で夕食を取ったのち、少年とアシュヴァルは二人で暮らす長屋への帰途を歩んでいた。
鉱山で働く他の人々の例に漏れず、アシュヴァルも仕事終わりの酒を好む。
とはいってもその量はたしなむ程度で、泥酔するまで飲むことは出会って以降一度もなかった。
しかしこの夜の彼は、珍しく足元がおぼつかなくなるほどに酔っていた。
「アシュヴァル、しっかりして」
「ん……悪い」
肩を支えつつ、帰り道を歩む。
「ほら、歩くよ」
「……ん、おう」
ここまで杯を重ねさせてしまった理由の一つが、今夜の食事と酒が初めての自身からのおごりであることは理解していた。
気分よく杯を傾けるアシュヴァルを初めのうちは喜ばしく見ていたが、雲行きが怪しくなってきたと気付いたときにはすでに手遅れだった。
飲酒の習慣があったならもう少し早く察知できていたのかもしれないが、まったく酒を飲んだことのない身ではどだい無理な話だった。
もう一つ理由が考えられるとすれば、その兆候は昨夜交わした会話の中にあったのかもしれない。
慰労の言葉を掛けてくれつつも、アシュヴァルはたびたび上の空になっていた。
酔っているからだと一概に言い切れない鈍く沈んだ表情は、おそらく故郷の件に起因するのだろうと思いを巡らせる。
記憶を持たない身の上では知る由もないが、故郷や帰る場所があることが必ずしも幸福なこととは限らないのかもしれない。
杯をあおり続けるアシュヴァルを前に、そんな考えが頭をよぎったのだった。
直後、定まらない足つきで歩んでいたアシュヴァルが足先をもつれさせる。
「うわあっ!! ア、アシュヴァル!!」
均衡を崩した彼を支えようと全身に力を込めるが、肩から滑り落ちていくアシュヴァルを押しとどめることはできない。
擦り抜けるようにして身体を離れたアシュヴァルは、往来の中央へと転び出ていた。
そのときだった。
不意に背後から木製の車輪のきしむ音を聞くとともに、何か大きなものがやって来る気配を感じる。
慌てて音のするほうを振り返って見たのは、速度を落とすことなく往来の中央を進む一台の荷車だった。
鉱山の麓の町には抗夫たちを対象にした多くの商店が軒を連ねており、荷車が通りを行き交う光景は珍しくもなんともない。
だが目前に迫る荷車は、今まで見たどんなそれよりも大型だった。
二人の輓夫の牽く車の荷台には彼らの雇い主であろう人物が座し、幌を掛けた幾つもの荷物が載っていた。
車輪をきしませて迫る二人牽きの荷車を前に、通りを行く人々は怒声や悲鳴を上げながら道を譲る。
輓夫たちは往来の真ん中に転げ出るアシュヴァルの姿を認めて進路をそらそうとするが、このままでは衝突は避けられないように思えた。
「んんっ——!!」
渾身の力を込めて腕を引き寄せ、アシュヴァルもろともあおむけの体勢で道端に倒れ込む。
紙一重のところで接触を免れはしたが、荷車は知ったことではないとばかりに走り去っていった。
遠ざかっていく荷車の後部に、少年はとがめるような視線を投げ付けた。
荷台を覆っていた幌が風をはらんで翻り、積まれた荷物の姿があらわになる。
積荷の多くは商品を収めているであろう木箱だったが、その中に一つだけ形状の異なるものがあった。
六面を木板ではなく格子状に組まれた金属の棒で囲まれていることから、それが箱ではなく檻であることがわかる。
檻は、捕えた者を外に出さないようにするための仕組みだ。
この鉱山の町にも、罪人を閉じ込めておくための牢があるとアシュヴァルから聞いたことがある。
ならば荷台の上の檻は、いったい何を捕えているというのだろう。
檻の中身に心を引かれた理由に、そういった好奇心や怖いもの見たさに類する感情が含まれていなかったわけではない。
だがそれ以上に得体の知れない胸騒ぎのような感覚が、少年の視線を荷台の上の檻へといざなっていた。
荷台を覆っていた幌が風を受けてさらに大きくまくれ上がると、檻の中に捕らわれていたものの正体が明らかになる。
その中身を目にした瞬間、かつてないほどに胸が激しく脈打ち始める。
格子の一面に背中を預け、膝を抱えるようにして座り込んでいたのは、一人の少女だった。
薄汚れた襤褸の裾から伸びる四肢はたやすく手折れそうなほど細く、不健康なまでに白い。
被毛は頭部から生えるのみで、体表は薄皮のような肌がむき出しになっている。
切りそろえられることなく無理やり散切りに刈られたような頭部の毛の隙間からのぞく右目は、往来に立ち並ぶ篝火の明かりを映して仄赤く輝いて見えた。
荷車が視界から消えるまでのほんの一瞬だったが、少年の目は鉄格子に捕らわれた少女の姿を確かに捉えていた。
そして檻の中の彼女もまた、自身のことを見詰めていたように思えてならなかった。
「あ——」
通り過ぎていった荷車を追い掛けようと、覆いかぶさったアシュヴァルの身体の下から擦り抜ける。
しかし立ち上がって一歩足を踏み出そうとしたところで、不意に衣服の裾をつかまれる感覚を覚える。
振り返って見下ろす少年の目に映ったのは、裾を固く握り締めるアシュヴァルの姿だ。
表情を失ったかのように冷め切ったその顔は、ひどく酩酊していた先ほどまでの彼とはまったくの別人だった。




