第二百六話 榾 火 (ほたび) Ⅱ
濡れた衣服を脱いで綿布を首から下げたエデンは、天幕の下にたかれた火の前で腰を屈める。
想像していたよりも冷えてしまっていたようで、赤々と燃える炎は芯から身体を温めてくれる気がする。
服を脱ぎ終えたシオンもまた火の元へとやって来ると、膝を抱えるようにしてしゃがみ込む。
二人並んで焚火に手をかざしつつ、めいめいの役割をこなす四人と一人に目を向けた。
焚火を挟んだ向こう側で火の番をしているのは嘴人の男だ。
巨躯の男は荷車のそばに座り込んで車輪の具合を確かめ、枝角の男と牙の男は車内から食材や調理道具などの収められた木箱を運び出している。
二人に続いて荷車から飛び出すマグメルの姿を目にし、エデンは隣で膝を抱えているシオンに向かって声を掛けた。
「本当にびっくりしたね。こんなことってあるんだって思っ——」
意を問わんとして面を向けるが、シオンは身体に巻き付けた綿布を押さえる手と逆側の手でもってエデンの顔を強引に背けさせる。
「私も驚いていないわけではありません。世に容れられぬ身であることを忘れてしまいそうになります」
「——う、うん。自分もそう思う」
燃える炎に視線を落として呟くエデンの傍らで、シオンは左右で束ねていた頭部の毛——髪と呼ばれるそれをほどき始める。
布の端を口にくわえ、腰ほどにも達する黒髪をひとつにまとめて絞る様を横目に眺め、エデンもまた襟髪を束ねていた組み紐を解いた。
軽く絞って水を切ったそれにじっと視線を落とし、編んでくれた少女の顔を思い浮かべる。
もしも早くにシオンやマグメルと出会えていたのなら、彼女の運命もまた別の道をたどっていたかもしれない。
孤独の身の上でなければ、稀有なる存在などではないと知られていれば、他者の支配を受けることなく、従属を強いられることなく、ひとりの人としての生を歩めていたかもしれない。
組み紐を握り締めて思いを巡らせてところ、叫びにも似たマグメルの声を聞く。
「あたし、おなか空いた! ねえねえ、早く早くー!!」
「だから今支度してるでしょうに!! 見りゃわかるでしょ!? ——ああもう、だから刃物使ってるときはどっか行っててくださいって!!」
ちょうど食材に刃を入れていた牙の男は、腕を取って催促するマグメルをたしなめる。
彼女は「はーい!」という返事とともにくるりと身を翻して男から離れると、自らも包丁と芋を手にして皮むきを始めた。
二人は横並びで手を動かしつつ「こう?」「違います! 空っ下手ですねえ」「えー? いっしょじゃん」「あーもう、危なっかしい!」などとやり取りを交わす。
二人の交わす放談を耳留めたからだろうか、火の番をしていた嘴人は「ふ」と小さな笑いを漏らした。
「お嬢があんなに楽しそうにしているなんて、いったいどれくらいぶりでしょうか」
感じ入るように言うと、緩やかに首を振って自らの言葉を改めた。
「——いいえ、初めて聞く声です。お二人に会えたことがよほどうれしいのでしょうね」
火中に新たな薪を投じつつ、嘴人は物柔らかな口調で続ける。
「貴方がたの声はお嬢とよく似ています。——気まぐれで、柔らかで、静かで、あまり甚だしくなく。貴方がたこそ、お嬢が長らく探し求めていたご同胞なのですね」
語る嘴人の言葉は、エデンに微かな違和感を抱かせていた。
皮むきに飽きて包丁を放り出してしまっているマグメル、彼女が己と限りなく近い存在であることは雨具の下の素顔をひと目見た瞬間に理解した。
それはおそらくシオンも同様であっただろうし、先ほど見せた明け透けな反応からマグメルもまた同じ思いを抱いていたであろうことが想像できる。
驚きの程については男たちも同等と考えて疑わなかったが、火の番を務める嘴人についてはその限りではないようだった。
まるで自分たちの姿が見えていないかのような、そんな口ぶりだった。
「あ——」
はたと気付き、絶句する。
思い返してみれば、近くに置かれた薪を火にくべる際も辺りを手探るそぶりを見せていた。
腰を下ろす木箱の脇に置かれた杖も彼のものなのだろう。
炎の向こうの嘴人の瞼は出会って以降一度も開かれておらず、常に閉ざされたままだった。
「どうぞお気になさらず。皆がよくしてくれますし、取り立てて不便なこともありません」
もっと早くに気付けていたなら、手伝えることもあったかもしれない。
気配りの至らなさを感じて二の句を継げずにいたエデンに対し、嘴人の男は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「強いてひとつ心残りを挙げるとするなら、喜ぶお嬢の顔が見られないことぐらいでしょうか」
嘴人は杖を手に立ち上がり、皆がめいめい衣服を引っ掛けた物干し紐の前まで歩み寄る。
一枚一枚衣服を裏返す慣れた手つきは、彼が盲目であることを忘れさせるほどだった。
嘴人が戻ってくるのと時を同じくして、食事の下準備を済ませた三人が火のそばにやってくる。
牙の男は焚火をまたぐようにして三脚を据えると、水の張られた金属製の大鍋を三本の脚の真ん中につるす。
鍋の中に次々と具材を放り込んでいく牙の男の傍らに立つ枝角の男、彼がふと振り向いた先には、がくりと肩を落として戻ってくる巨躯の男の姿があった。
車輪の具合が思わしくなかったのだろう、集まる視線を浴びた男は申し訳なさそうに首を左右に振って応じた。
「こいつは参りましたねえ。早くなんとかしちまわねえと明日も足止めですよ。旦那、どうします?」
「どうもこうもない! 今の君は仕事は目の前のそれだろう! 料理のことだけ考えてくれたまえ!」
困り顔の牙の男の言など意に介した様子もなく、枝角の男はあっけらかんと言い放つ。
「料理って……じゃああいつはどうするってんですか? 本当にここに置いていっちまうつもりですかい!?」
「そんなことは言っていないだろう! あれも僕たちの大切な相棒だ。何があっても連れていくに決まっている! それから君は勘違いをしているようだが、僕は何も悩むなと言っているわけじゃないぞ。何事にも好機というものがある。悩むべきときは悩み、忘れるときはすっかり忘れるのが賢い生き方というものだ。それとも膝を突き合わせて悩めば、壊れた箇所が立ちどころに直るとでもいうのかい?」
「そんなこたあ言っちゃいませんが……そういうもんですかねえ」
「そういうものさ。考えるのも悩むのも食事の後でいいだろう。あれこれ頭をひねりながらでは、せっかくの晩餐が台無しじゃないか。大事な賓客をもてなすためにも、君には惜しみなく腕を振るってもらわなければ困ると言っているのだ!」
「そう仰ってくださるんなら、こっちもまあ張り合いが出ようってもんですが……」
胸を張って言い放つ枝角の男を前に、牙の男は言葉とは裏腹のあきれ顔で応じる。
「……どうせなんもかんも忘れっちまって、朝になったらどうにかしろって大騒ぎするんでしょうに」
辟易したように首を突き出した彼は、手にした杓子で鍋をかき回しながら呟いた。




