第二百三話 車 輪 (しゃりん) Ⅱ
「前へ! 後ろへ! そうです、前!! 後ろ!!」
角燈を手にしたシオンの号令に合わせ、一同は荷車の押し引きを繰り返していた。
先ほどまで泥の中で空転していた車輪も、滑り止めの布をかぶせた石をしっかりと捉えているようだ。
確実な手ごたえを感じる中、エデンも荷車を押す手に渾身の力を込める。
七人全員で「前! 後ろ!」と声を合わせて唱和しながら反動を付けて揺り動かすうち、車体はきしみを上げて大きく前後し始める。
「——今ですっ! 前へ!!」
角燈を置いて自らも車体に張り付いたシオンが普段の様子からは考えも付かない大声を放つと、他の面々もおのおの気合の叫びを上げる。
前方で軛を引く巨躯の男、後方から荷車を押す男三人と少女一人、そしてエデンも、声を張り上げながら荷車を前方に向かって押し込んだ。
後輪の下にかませた木板が泥水をまき上げて後方へ跳ね飛ばされると同時に、くぼみを抜け出した荷車は路上へと乗り上げていた。
「やったー!! やったやった、やったあー!!」
一番に声を上げたのは少女であろう小柄な人物だった。
高々と拳を突き上げ、嬉々として飛び跳ねて全身で喜びを表す。
彼女以外の四人もそれぞれ手を打ち合わせ、降り続ける雨に身をさらしながら無邪気に快哉を叫んでいる。
鼻先を付き合わせて激しい言い争いを交わしていた二人も、先ほどまでの応酬などなかったかのように笑い合っていた。
傍らのシオンに視線を移せば、喜び合う五人を見詰める頭巾の奥の目には薄い笑みが宿り、わずかに上がった口角はどこか満足げにも見える。
釣られて笑みをこぼすエデンを見て取ると、彼女は居心地悪そうに顔を背けてしまった。
「あれ……?」
しびれの残る掌を払い合わせながら再び笑い声の元に目を移すが、視線の先にあるのは男たち四人の姿だけで、寸前まで輪の中にあったはずの少女が見当たらない。
居所を求めて辺りを見回す中、ふと気付くのはどこかから注がれる視線だ。
頭上を仰ぎ見たエデンが視界に捉えたのは、いつの間に上ったのだろうか荷車の屋根に座り込んで下方を見下ろす少女の姿だった。
雨具の頭巾からのぞく瞳からは、先ほどまでの快活で溌溂とした印象は一切感じられない。
気付けば荷車に向かって足を踏み出していた。
「あ、その——」
屋根の上の少女に声を掛けようとした瞬間、時を併せたかのように牙の男が声を上げる。
「さあさ、兄さん姉さん!! ここまでしてもらったからにはただでおさらばって訳にはいかねえ!! ちょっくらこいつを脇に寄せるまで待っててくださいな!! 天下の往来に置きっ放しってわけにはいきませんからねえ!! ——そら、笑っちまいましょうや!!」
「だから僕に断りなく話を進めるんじゃないと言ってるだろう! 一度ならず二度までも蔑ろにされるとはなんたる皮肉だ!」
「誰が言ったっていいでしょう、そんなもん!! 減るもんじゃなし、四の五の言わんといてくださいよ!!」
「なんだと!? 目減りしてしまうぞ! 僕の団長としての権威が!」
「そんなの初めから知れたもんでしょうが!!」
「ほらほら、お二人とも——!」
再び顔を突き合わせての言い合いを始める二人の間に割って入ったのは嘴人の男だった。
枝角の男と牙の男、両者の胸元に翼を添えた彼は二人を押し戻しながら言う。
「これ以上よそ様の前でみっともないところを披露するのはなしですよ。騒がない、三がない。三日にあげず喧嘩も結構ですが……ろく、ろく、碌なことになりませんよ。そう、このままじゃ——」
何がおかしいのか、嘴人は含み笑いを漏らし始める。
「——七転八倒だね」
嘴人の言葉を引き継ぐように言ったのは巨躯の男だ。
さも得意げな口ぶりは、頭巾の奥のしたり顔さえもありありと感じさせる。
なんのことかわからずぽかんと口を開けて眺めるエデンの目の前で、四人は突如として火が付いたように笑い出す。
腹を抱え、互いの肩をたたいて笑い合う四人から傍らに視線を移せば、心底あきれ果てたとでもいうような表情をたたえるシオンの姿がある。
肩を落として「はあ」と小さく嘆息してみせると、彼女ははしゃぐ四人に向かって力なく告げた。
「移動させるなら早く済ませてしまいましょう。……九仞の功を一簣に虧く、事を成すなら最後まで気を抜かないように」
シオンの言葉を聞いてどっと沸き立つ四人だったが、彼女は差し出した手をもってそれを制する。
「さあ、始めましょう」
仕切り直すかのように言うと、シオンは自ら先導を買って出る。
巨躯の男が前方で軛を牽き、屋根の上の少女を除いた残りの三人とエデンが左右と後方からに車体を押す。
進路に十分過ぎるほど注意を払うのは、文字通り同じ轍を踏むことのないようにだ。
シオンの指示に従って街道脇に荷車を移動させる中、エデンは車体を押す手に違和感を覚える。
皆で力を合わせてくぼみから押し上げたはずなのに、前方へ向かって押し込むたびに引っ掛かりのようなものを感じるのだ。
直後、車体の下部からぎしりという不穏当な音が響いたと思うと、荷車はぐらりと身をかしがせる。
「わわっ!! 落ちるー!!」
頭のてっぺんから出るような声に頭上を見上げれば、小柄な少女が荷車の屋根から滑り落ちそうになっている。
すんでのところで落下をこらえた彼女は下方を見下ろしていかにも不服げな声音で言った。
「ねね、どーなってるの!? すっごいゆれるんだけど!!」
荷車に異変が生じていると気付いたのだろう、先導を務めていたシオンによって停車が告げられる。
彼女と巨躯の男とが車体の検分に当たる中、枝角の男と牙の男はもはや何度目かとも知れない言い合いを始めていた。
「これはどうしたことだ! 君、何か機嫌を損ねるようなことでも言ったんじゃないのか!?」
「それを言うならあんたでしょうに!! 動かなけりゃ置いていくとかなんとか言ってやしませんでしたっけ!? それ聞いて臍でも曲げたんでしょうよ!!」
枝角の男が言えば、牙の男も負けじと反論する。
「ほら、ご両人! そのへんにしておきましょう! 仲たがいしている場合じゃありませんよ!」
間に挟まれた嘴人も両者を取り持とうと努めるが、二人は頑として聞く耳を持とうとしない。
「ああ、わかっているともさ! 僕は最初からそのつもりだぞ! いつも決まって文句を言うのはこの男のほうじゃないか!」
「言うに事欠いてなんてことを仰りやがる!! 毎度毎度あんたのわがままに振り回されるこっちの身にもなってくださいって話でさ!!」
鼻と鼻とが触れんばかりに詰め寄る二人を前に、嘴人も匙を投げでもしたかのように肩をすくめてしまった。
「そ、その、仲良く……」
おずおずと声を掛けるが、売り言葉に買い言葉の二人には届かない。
どうするべきかわからずにまごついていたエデンは、ふと屋根の上の少女がぽつりと呟く声を聞いた。
「ね、あたしおなかすいた」
瞬間、顔を突き合わせていた二人の男がぴたりと動きを止める。
「そうだな」「でさあね」
息を合わせてうなずき交わしたかと思うと、二人は何事もなかったかのように荷車の後部に取り付いた。
その後は検分を終えたシオンと巨躯の男も加え、動くたびにがたごと音を立てて揺れる荷車を、先ほどよりも入念な仕事をもって街道脇の木立の間へと移動させたのだった。




