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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第三章  吟遊楽団(がくだん) 篇   第一節 「夜半の学び舎」
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第百九十九話   晩 祷 (ばんとう) Ⅱ


 教えを授けてほしいとエデンが求めた夜から、就寝前のひとときを割いた一対一の勉強会が始まった。

 授業が行われるのは宿に泊まることができた際や宿泊小屋に他の利用者がいない場合に限られたが、シオンは先生から授かった幅広い知識を出し惜しみすることなく、その上で未知に触れる体験を奪うことがないよう留意して教えを施してくれた。

 彼女の厚意と配慮に応えられるようエデンも真摯に授業に取り組み、自らを取り巻く世界について少しずつ学びを深めていった。


 エデンの要望から当面の題材は世界に暮らす人々に関する内容となっており、この日の授業も四大種しだいしゅのひとつである獣人ししびと、その中でも「蹄人ひづめびと」を取り扱うものだった。

 蹄人たちについて深く知りたいと願い出たのは、彼らが非常になじみ深く、近しい間柄を築くことのできた種のひとつだったからだ。

 鉱山の宰領イニワをはじめとする抗夫たちや、家族として迎えてくれたラバンとラヘルの二人も蹄人だった。

 それに自由市場の住人たちの三分の一は蹄人であり、街道で行き交う行商人の半数ほどが蹄人であることに気付いたからだ。

 その旨を伝えた際、シオンはしばしの逡巡ののちに「確かに好機ですね」と答え、蹄人を授業の題材として取り上げることを約束してくれた。

 その夜、宿泊小屋に二人以外の宿泊者の姿は見られず、就寝前の時間を授業に当てることができたのだった。


「蹄人とは単一の種を指す呼称ではありません。他の種がそうであるように、蹄人もまた大別された中で幾つかの種に細別されます。種名が示す通り大多数は手指の先端を覆う円筒状の蹄を備え、頭部に角を頂く者がいるのも特徴です。脚部の蹄の偶奇による分類では、土を踏み締めて歩む種と草原を駆けることに長ける種で分けられることもあるそうです」


 既知の蹄人たちの姿を思い浮かべれば、確かに手足に蹄を有し、多くが長さも形状もまちまちな角を伸ばしていた者もいた。

 だが、同じ蹄人でも角を持たないラバンとラヘルのような種もいれば、角どころか名を示すはずの蹄すらない種も存在することに思い至る。


「その、先生も蹄人だって言ってたような……」


「何事においても枠組みから外れた変則的な存在はあります。ああ見えて歴とした蹄人らしいのですが、基本を学ぶ場で例外を取り扱うと紛らわしいので今は避けて考えておいてくださって結構です」


「れ、例外なんだね。……わ、わかった」


 苦笑交じりに漏らすエデンに対し、シオンはさらりと言ってのける。


「はるか古来より蹄人は同族意識を重んじる種だったと伝えられています。昨今では自由市場を含む大集落で労働に従事する者も多く見られますが、もともとは山間や森林などに小さな集落を築いて暮らしていたそうです。開拓によって故郷を追われ、放浪の果てに流れ着いた先で労役を強いられている者も少なくないと聞きます。住み慣れた故郷と切り離されるということは、農業で生計を立てていた蹄人たちにとって由々しき事態です。異文化への適応能力が高いのも彼らの強みなのですが、何かしらの事情があって大集落で暮らしている者もいるのでしょうね」


 話を聞いて最初に思い出したのは、酒杯を傾けながら語るイニワの顔だった。

 故郷に妻子を残して抗夫としての仕事を続けているのは、人手に渡ってしまった土地を買い戻すためなのだと言っていた。

 ラバンとラヘルの二人もまた、事由あって故郷を捨てたことを教えてくれた。

 それぞれの事情を抱えた既知の蹄人たちに思いをはせてうわの空になるエデンを認め、シオンは下から顔をのぞき込むようにして問い掛ける。


「どうしましたか? 今夜はこの辺りにしておきましょうか……?」


「ご、ごめん……! す、少し考え事してた。シオンがよければ続けてもらっていいかな」


「わかりました。ではもう少しだけ」


 慌てて顔の前で手を振るエデンにうなずきを返し、シオンは授業を再開する。


「実に皮肉なことですが、集落の規模が大きくなるほど、蹄人たちの力が必要となるのも事実なのです。元よりすきまぐわなどの農耕具を扱う技術に長けていた彼らが、重荷を積んだ荷車を牽くようになったのは自然な流れであると言えるのではないでしょうか。類いまれな筋力と持久力を有する蹄人たちの存在は、交易や物流において大きな役割を担っています。彼らの牽く荷車がなければ、今日の大集落の発展はなかったでしょう」


「……そうだったんだ」


「はい。戦う力を備えた他の獣人たちに匹敵する屈強な肉体を持ちながら、争いを好まず平穏と和順を重んじるのが蹄人という種です。繰り返しになりますが、例外はあります。ですが、少なくとも貴方の思い浮かべる蹄人たちも、私の最も身近な蹄人も、いずれも例に漏れぬ人物であることを私たちは知っています。種として先天的に得た性質だと言ってしまえばそれまでですが、未開の大地に蹄を刻み、荒野を切り開き、穀菜を糧に選んだ者たちの末裔と知れば得心もいきます」


 手帳に硬筆を走らせながら、シオンはわずかに口元に笑みを刻む。


「農業とは明日への投資です。実るとも限らぬ種を蒔き、いつ雨風に吹かれるやもしれぬ苗を守る。奉仕と献身の心なくして行えるものではありません。蹄人とは、優しく、思慮深く、そして時に自ら——」


 そこまで言うと、彼女は俄然として口をつぐんでしまう。

 普段の落ち着いた振る舞いに似合わぬ乱暴な手つきで手帳を閉じるや、思い詰めたような深刻な表情で視線を落としてしまう。


「シオン……?」


「な、なんでもありません。どうかお気になさらず」


 案じるように名を呼ぶも、少女は自らの膝にじっと視線を据えたまま微動だにしない。

 平静を装ってはいるが、表情はいつになく硬く強張っている。

 何か異変を来すやり取りがなかったかと会話をさかのぼるように頭を巡らせると、ひとつだけ思い当たる節があることに気付く。


「シオン、先生のことを思い出して——」


「ち——ちがっ……!!」


 話を遮って声を上げるシオンだったが、振り仰いだ顔をすぐにうつむける。


「……わないです。仰る通りです。少々郷愁の念に誘われてしまいました。ですが、安心してください。一過性の感傷のようなものですので、帰りたいなどと駄々をこねるつもりは一切ありません」


 よどみなくひと息で言い放ち、背を向けて横になってしまう。

 外した眼鏡を枕元に置いて掛け布を引き上げたシオンは、背中越しに「おやすみなさい」と小さく就寝を告げた。


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