第百九十八話 晩 祷 (ばんとう) Ⅰ
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自由市場を後にしたエデンとシオンは、大街道とも石の路とも呼ばれる街道を東へと進んでいた。
敷設以来、大陸随一の交易路として利用されている大街道には、行商人たちのための宿泊施設が一定距離ごとに設けられている。
その多くは眠るための場所だけでなく、食事や酒を提供する酒場としての機能を併せ持っていた。
近年になって行商人たちの行き来がますます盛んになり、宿を中心にして宿場町と呼べる規模の町並みが着々と形成されている所もある。
そうした宿場町には、大規模な隊商向けに品物を保管する倉庫や、その場で商品を販売できる売り場を備えた交易宿から、寝床代のみを支払えば宿泊できる木賃宿のような施設までもが立ち並んでいた。
大きな宿場町周辺には私設の警邏隊も組織され、行商人たちの運ぶ積荷を狙う野盗や、それ以外の脅威に対する警戒に当たっていた。
また、街道筋には等間隔で簡易的な宿泊小屋が配されもしている。
これはもともと街道を敷いた職人たちが利用していた作業小屋で、後に街道を利用する者たちのために彼らが置き土産として残していったものなのだという。
雨風をしのげる程度の簡素な小屋でしかなかったが、それでも街道を行く旅人たちは十分に恩恵を享受していた。
当然エデンらも例外ではなく、この街道沿いに点在する宿泊小屋を泊まり歩く形で東へと歩を進めていた。
慣れた者であれば宿泊小屋と宿場町を渡り歩くようにして旅をすることもできただろうが、経験の足りない二人にとって予定通りに旅程を進めることは困難だった。
日没までに目標としていた宿泊小屋まで進むことができず、木陰や茂みで夜を明かしたこともあれば、到着したときには先客で小屋がいっぱいだったこともあった。
小屋の外壁を風除けにして夜を明かしたときは、朝が来るのが果てしなく長く感じられた。
そうした幾度かの失敗を経て、エデンとシオンは同じ失態を繰り返すことのないよう注意深く計画を練る。
急く気を抑え、自分たちの歩幅を知り、無理のない旅程を組み直す。
そうして東への道を進む中、休憩や食事、就寝前のひとときなどに、エデンはシオンからさまざまな話を聞かせてもらうようになっていた。
初めて耳にする未知の情報は真新しく、既知の知識であっても見方が変わればまた新たな発見があった。
宿場町の粗末な宿を寝所に選んだその夜、エデンは弓と矢の手入れを終えて手帳に硬筆を走らせるシオンにおそるおそる声を掛けた。
「シオン、少しいいかな……?」
「なんでしょうか」
二台の簡素な寝台と燭台のみの部屋には、当然文机などは備え付けられていない。
寝台の上に身を置いた彼女は膝に手帳を乗せ、慣れた様子で書き物をしていた。
「ひ、ひとつお願いがあるんだ。シオンがよければなんだけど、その、いろいろ教えてほしくて」
「いろいろ、ですか」
「うん、いろいろ。今みたいに知らないことばかりじゃ、また面倒を掛けるかもしれないって思って。……で、でも迷惑だったらいいんだ。今みたいに旅のことをまとめる時間も減っちゃうだろうし——」
「それでいいのですか? 先入観や偏見を持たずに物事と向き合いたいと仰ったのは貴方じゃありませんか」
「それは……う、うん、確かに言った」
「別に責めているわけではありません。真実とは絶え間なく流れる川のようなもの。刻々と生まれては消える泡のように、貴方の中に新しい意識が浮き立ったとしても何もおかしい話ではありません」
肩を落とすエデンに、膝の上の手帳を閉じたシオンは努めて優しい声音で言う。
「エデンさん。貴方は私がこの白紙の手帳を選んだことを認めてくれました。ですから私も貴方には真っ白な状態で世界に触れてほしいと願っています。そのために私は貴方の智になると決めたのです。万象を記した書の代わりとはいきませんが、貴方の道行きを知識と知恵とで明からしめることができるように」
そこまで言って眼鏡を押し上げたシオンは、普段以上に真剣な目つきをもってエデンを見据える。
「わかりました。貴方ご自身の目と耳で世界に触れることの妨げにならない程度に希釈した上で、私の知っていることをお教えしましょう。知るべき内容は私に一任していただいてもよろしいですか?」
「も、もちろんだよ! でも本当にいいの? シオンの勉強の時間が——」
「ご心配には及びません。先生もこう仰っていました。教えることと学ぶことは相補うもの。人は学ぶことでいかに己が無知であるかを自覚し、教えることで己の至らなさや未熟さを知るのだと。ですから一介の学究の徒である私も、己と向き合うために貴方と向き合ってみたいと思います」
シオンは膝を立てたまま腰をずらし、寝台の上に一人分の隙間を空ける。
続けて握り拳を口元に添えて小さなせき払いをすると、掌をもって自らの隣を軽くたたいてみせる。
「え、どういう……?」
「今夜はここが教室です。ですが塗板も白墨もないのですから、こうするより他に選択肢がないでしょう」
言葉の意図をつかみ切れずにいるエデンだったが、シオンは催促をするような手つきで寝台をたたく。
「あ……! わ、わかったよ!」
慌ててもうひとつの寝台に身を移したエデンは、肩の触れる距離でシオンの隣に並んだ。
「こ、これでいいのかな……?」
恐る恐る尋ねるエデンを横目に、シオンは改めて膝の上に手帳を乗せる。
裏表を返した手帳を裏表紙側から開いた彼女は、何も書かれていない頁の上部に硬筆を走らせ始めた。
「一日目——と」
「シオン、いいの?」
白紙の手帳は彼女が先生から託された送別の品だ。
自分のために大切な一頁を割いてもらうことに、心苦しさを覚えずにはいられない。
名を呼んで聞き合わせるエデンに対し、彼女は開いた頁に視線を落としながらささやくような声で呟いた。
「これは私と貴方の学びの記録です」
小さくせき払いをすると、彼女は指先を白紙の頁に触れさせながら仕切り直すように言う。
「最初は復習からです。貴方や私の住む世界についてお尋ねします。この世界に住む人の名を有する命は、大約四つの種に分かれています。それでは四種全てを挙げてください」
「うん。ええと、獣人、嘴人、鱗人と、まだ会ったことないけど潤人、だったかな?」
「はい、正解です。それでは獣人の中でも——」
授業はそれから一時間ほど続き、いつの間にか二人肩を預け合うようにして眠りに落ちていた。




