第百九十七話 夜 想 (やそう)
「エデンさん」
無数の木板を継ぎはいだ補修跡の目立つ壁に、少女は緩くもたれるようにして腰を下ろしていた。
立てた膝の上に書物を据え、開いた頁に旅の記録を書き付けるのが就寝前の恒例だった。
「……あの、エデンさん」
几帳面な人柄をよく表す鋭角的な筆つきでつづられた文章と、拙くも味わい深い筆致で描かれた挿画の不一致が仄かなおかしみを想起させる。
旅立ちの日から二週ほどしか経過していないにもかかわらず、記録はすでに三頁目に及んでいる。
旅が終わる頃には、一頁も余すことなく文字と挿画で埋め尽くされているのではないかと思わせる速筆ぶりだった。
「聞こえていますか? 見えていますか?」
「あ……う、うん」
目の前でひらと手を振られたことにより、少年はようやく我に返る。
うわの空で少女の手元を眺めていたことに思い至ると、はじかれたように顔を上げた。
「な、何かな……?」
「何かな、じゃありません。先ほどから何度も呼んでいるのですが」
不服そうな表情で言って、彼女は膝の上の書をぱたんと閉じる。
「そんなにじっと見られていたら書けるものも書けません」
「ご、ごめん……! も、もう見ないから続けて」
「謝罪が欲しいわけではありません。それに今夜はこの辺にしようと思っていたところです」
あきれ交じりに言って眼鏡を外した少女は、二、三度目をこすったのちに吐息を含んだあくびをひとつこぼした。
「寝られるときにはしっかりと寝ておくほうが賢明ですから。眠りは人に許された最大の贅沢です。存分に特権を享受するとしましょう」
言うが早いか彼女は枕元の角燈の火を吹き消し、硬い木製の床に身を横たえてしまう。
後ろを向けた彼女に倣って横になると、少年は足元に弛む掛け布を手探りで鼻先まで引っ張り上げた。
耳を澄ませて背中越しに少女の様子をうかがうが、いつまで経っても寝息は聞こえてこない。
まだ眠っていないと判断し、少年は——エデンは少女の名をぽつりと小さく呟いた。
「シオン」
しばし待ってみるが応答はない。
思えば今日も一日歩き通しだったのだ、疲れが急激に眠りを誘ったとして何も不自然はない。
自らも眠ろうと目を閉じたところ、不意に聞こえたのは少女からの問い返しの言葉だった。
「何を考えていたんですか」
「じ、自分が……?」
「ここには貴方と私のふたりしかいません。独り言以外は貴方に向けられたものと受け取っていただいて結構です」
「……うん。ええと、旅に出た日のこと、かな」
「そうですか」
素っ気なく答えると、シオンはそれ以上を継ぐことなく押し黙る。
闇の中、居心地悪そうに輾転とする衣擦れの音だけが響いていたが、音が鳴りやむと同時に彼女は再び沈黙を破った。
「エデンさん。本当は不満を抱いてはいませんか。あの日——旅立ちの日、私が下した選択を。先生の手にした二冊から、白紙の書を選び取ったことを」
シオンの手にする一冊の書は、育ての親であり学問の師でもある先生より授けられたものだ。
旅立ちに当たり、先生は二冊の書物のどちらを供とするかをシオン本人に選ばせた。
彼女が選んだのは、進むべき道の全てが記された紀行ではなかった。
巻頭から巻末まで全ての頁が空白の、書物と呼ぶより手帳と呼んだ方がふさわしく思える白紙の一冊だった。
「あのときは先生に覚悟を試されているような気がして、意地を張っていたのかもしれません。しかし、いざ実際に旅に出てみると、もう一方を選んでいたほうが正解だったのではないかと思えてならないのです。……あちらを選んでいたなら、もっと滞りなくローカさんの足取りをたどることができていたかもしれません」
徐々に暗闇に慣れてくる目が捉えるのは、背中を丸めて小さくなるシオンの後ろ姿だ。
壁と同様に幾多の木板で補修された天井に視線を移したエデンは、頭上に向かって手を差し伸ばしつつ口を開いた。
「どっちが正しいかはわからないけど、間違ってるだなんて思ったことは一度もないよ。歩き出さなかったら、離れていくしかなかった。だけど今は一歩ずつローカに近づけてる気がする。……少し前にね、歩くことをやめちゃってもいいかなって考えたことがあったんだ。みんながいてくれたら、それだけで幸せなんじゃないかって。でもローカがいなくなって気付いたんだ。やっぱり自分は自分のことを知りたい。無くしたものを取り戻して、それで自分が誰なのかを知らなくちゃいけないんだって」
反動を付けるようにして上半身を起こし、変わらず背を向けたままのシオンに向かって語り掛ける。
「本当のことを言えばすぐにでも会いたい。でも、ローカがもっと知りなさいって言ってるのなら、自分は誰かの残した足跡の上を歩くよりも自分だけの道を歩きたいって思う気持ちもある。何も知らないのなら、何も知らない心に世界がどう映るのかを見てみたい。思い込みで固まっちゃう前に見て、聞いて、触って、それで自分がどんなふうに感じるかを知りたいから。——だから、シオンも同じだとうれしいかな」
「同じ……?」
「思うんだ。自分の感じてる世界とシオンの感じてる世界は、似てるけど少しだけ違うんじゃないかって。ローカも同じ。だからシオンはシオンの感じた世界で頁を埋めていってほしいって思う。きっとローカもそれを望んでる」
横たわった姿勢のままのシオンが、顔だけをひねって視線を寄せるのがわかった。
「ローカね、ちょっとだけ意地悪なところがあるんだ。もし自分が横着したって知られたら、見つけても一緒に帰ってくれないかも」
どういうわけか込み上げてくる笑いをこらえながら言うと、再び後ろ
を向けたシオンはささやくような声でつぶやく。
「……変な人、ですね」
「そうなんだ。ほんの少し変わってる」
届かないと知りつつ、エデンはシオンの背に向かって表情を緩めた。
「——ふふ」
小さな笑い声とともに少女の肩が小刻みに揺れる。
「ど、どうしたの……?」
「なんでもありません。おやすみなさい」
「……う、うん。おやすみ」
笑う理由を測りかねて口ごもるエデンを置いて、シオンは頭まで掛け布をかぶってしまう。
どこか釈然としない思いを抱えたままあいさつを返したのち、エデンもまた彼女に背を向ける形で身を横たえた。
不毛の荒野で目覚めた日から、いったいどれだけの時が流れただろう。
己が何者であるかも思い出せず、変わらない景色の中をひたすらに歩き続けたあの日から。
あてどなくさまよい歩いていたところを見つけてくれ、拾ってくれ、人としての生き方を教えてくれたのは彪人のアシュヴァルだった。
種としての元来の堅強さと闘争心の上に個としての負けん気を積み重ねたアシュヴァルが教えててくれたものは計り知れない。
多少でも人らしく生きていられているのだとしたら、それは彼と暮らした日々があったからだ。
アシュヴァルと、鉱山で出会った抗夫仲間たち。
高地に暮らす彪人たちを束ねる里長ラジャンと、彼の下で日々強さに磨きをかける若き戦士たち。
数々の出会いにより、運命は大きく転変した。
大きな出会いはもうひとつあった。
他の誰とも違う、自身とよく似た姿形をした少女ローカとの出会いが進むべき道を変えた。
人でありながら商品として扱われる彼女を買い取るために一心不乱に働き、最終的にその行為自体が大いなる誤りなのだと気付かされた。
とどまれと勧めてくれる彪人たち、そして家族、兄弟、無二の友人とも呼べるアシュヴァルに別れを告げ、旅立つことを決意するに至った理由は幾つかあった。
守られてばかりではいられないと思い至ったのは、ローカと出会ったことにより芽生えた自立心からか、あるいは強き者たちの背中を見続けたことによる憧れからか。
失われた過去と記憶を取り戻し、己の素性を明らかにしたいと願う気持ちも負けず大きかった。
いつかの再会を約束し、ローカと二人で彪人の里を発つ。
大河に沿って道なき道を下ってたどり着いたのは、種を問わず数多くの人々が集まる自由市場という名の大集落だった。
そこで出会ったのが呪われた血脈を有する蹄人の仲仕ラバンと同居人ラヘル、嘴人の行商人マフタと彼が相棒と呼ぶホカホカ、そして鯆人の学者である先生と、その教え子であるシオンだった。
ラバンとラヘルは実の子のように厳しさと優しさをもって接してくれ、マフタとホカホカは類いまれな気転と度量で幾度となく力を貸してくれた。
短い時間だったが先生はさまざまな知識と教訓を授けてくれ、シオンに至ってはこうして故郷を捨てて旅に同行してくれている。
シオンに対し、ローカを追い求める旅に付き合わせてしまっているという引け目を感じている部分は少なからずあったが、彼女が旅立ちに際して取った選択について悩みを抱いていたことは意外だった。
察しの悪さを自戒するとともに不意に胸の内をかすめるのは、世界を知りたいと願う彼女が白紙の書を手に取る経緯すらも、ローカが度々口にした「導き」のうちに含まれているのではないかという畏れにも似た感覚だ。
漠然とした心の晴れなさを頭から振り払って耳を澄ませば、すうすうとシオンの寝息が聞こえてくる。
寝られるときは寝ておいたほうがいいのは彼女の言う通りだ。
明日も終日歩き詰めになるだろうし、今後もこうして屋内の寝床を確保できるとは限らない。
数日ぶりに屋根の下で眠ることのできる恩恵に浴するべく、エデンは固く目を閉ざした。




