第百九十六話 桑 蓬 (そうほう)
無言を保ったまま、肩を並べて河沿いを歩む。
町の中心から遠ざかるに連れ、河中にも河辺にも人の姿が目立たなくなっていく。
人為をもって施されていた正市民区の護岸も、自然のままの形を取り戻しつつあった。
「シオン、自分もひとつ聞いていいかな」
足を止めることなく、正面を見据えたまま伺いを立てるように言う。
沈黙を破って口を開いたのは、特に気詰まりを感じたからというわけではない。
町を離れた後では聞けずじまいに終わってしまいそうな気がしたからだ。
シオンもまた歩みを止めることなくエデンを横目で一瞥し、行く手に視線を据えたまま短く応じた。
「私に答えられることでしたら」
「そ、その、今になって聞くのもおかしいかもしれないけど、どうして自分と来てくれるのかなって——」
尋ねたかったのは、彼女が同行を申し出てくれた日に生じ、引っ掛かりを感じつつもずっと聞けずにいた疑問だった。
追い求めてやまない何かが目指すべき先にあるのはわかる。
先生はああ言っていたが、それでも道半ばにしてついえた志を引き継がんとする思いがまったくないわけではないということも。
だが、それが暮らし慣れた地を捨て、愛する者の庇護下を去る理由になるものだろうかと考えると、捉えどころのない不安がむくりと頭をもたげる。
探求心ただひとつが、未知の世界に一歩を踏み出す原動力たり得るのだろうか。
「——ええと、ち、違うんだ! シオンが隣にいてくれてすごく心強いよ。でも自分が、その……つ、連れ? 一緒に歩く相手でいいのかな……?」
「何度も言わせないでください。貴方のためだけではないと説明したはずです。これは私の問題なんです。……いいえ、私とあの子のです」
「シオンと、ローカの……?」
食傷したように呟く彼女だったが、遠い目に宿した光は優しくもどこか物悲しい。
「ローカさんは私なんです。あり得たかもしれないもうひとつの私の可能性。貴方と同じです。先生と出会えたことが奇跡としか言いようのない僥倖であったと思い知るのです。だからこそ隣り合う別の世界の私が道に迷っているのなら、私は私の手を引いてあげたいと思うでしょう。——私には、私を見つけなくてはならない務めがあります。私には、私に見つけてもらう権利があります」
両手で固く書物を抱き締め、シオンは粛然として断言する。
「貴方が気負う必要は百にひとつもありません。今日これより、水棹を執るのは汀渚の賢者の一番弟子である私の役目です。授かりし百術千慮をもって、貴方の旅の知る辺となりましょう。ですからエデンさん、どうぞ貴方は貴方の思いのままに」
言葉を切って長衣の裾を翻すと、背を向けた彼女はいかにも得意げな口ぶりで呟いた。
「——進むべき道は私が引いて差し上げますから」
どこかで聞き覚えのある表明を耳にし、エデンは呼吸の止まるような驚きを覚えていた。
ぼうぜんと立ち尽くす間に、シオンはひとり先へと歩み始めてしまう。
「ま、待って!! シオン!!」
我に返り、先を進む少女の背中を追う。
再び言葉を交わすことなく歩き続けるうち、周囲から町の賑わいは消え、住人の姿も少なくなっていく。
荷車を牽く行商人のみがちらほらと行き交うそこは、すでに自由市場の名を持つ大集落の末端だった。
多くの人々が暮らす集落が散在する点ならば、それらを結ぶ街道は無数に張り巡らされた線だといつかラバンが語っていた。
眼前を走る街道もそのうちのひとつなのだと考えると、不安と高揚とで胸がじんと熱くなるのがわかる。
「ローカさんが北方に進路を取ったのであれば、大街道を東へ進んだと考えるのが妥当でしょう。石の路の二つ名で呼ばれるこの道は、辺地へ続く小街道を束ねる形で東西を貫きます。残念ながら私たちの目的地である最北までは続いていませんが、道が途切れるところまでは街道沿いを進むが順道かと思われます。——ご承知いただけますか?」
「うん。——東へ」
許可を求めるように言うシオンを見据え返し、首肯をもって賛同の意を示す。
改めて大街道の東西を遠望してみれば、ラバンに連れられて初めて荷付け場を訪れた日のことを思い出す。
街道の東西にそれぞれ方角の名を冠した大集落があると聞いてはいたが、そのときはそこに続く道を歩むことになろうとは想像もしていなかった。
当然だが、西を見ても東を見ても街道の果てを見通すことはできない。
石畳を敷き詰めて整備された道は、見る限りどこまでも際限なく続いているかのように思えた。
隣を見れば、大街道に向かってひと足ずつ歩を進めるシオンの姿がある。
一歩一歩を確かめるように進む足つきからは、彼女も決して安穏とした心持ちで旅に臨んでいるわけではないということが伝わってくる。
故郷を捨てる重さを共感できると言ったなら、少々傲慢が過ぎるだろうか。
だが、シオンがローカをもうひとりの自分と呼んでくれ、彼女のために旅立つ覚悟を定めてくれたことに大きな喜びを感じているのも事実だ。
たった一日、それもほんのわずかな関わりの中でシオンがローカに深い繋がりを見いだしてくれたのも、二人が同じ力をもつ者同士だからなのだろうか。
どこかでローカもシオンを同じく思ってくれていたらと願うが、少しだけ寂しく感じる部分もなくはなかった。
石畳の道の手前で立ち止まったシオンは、両足を行儀よくそろえて大きく息をつく。
そして背嚢の肩紐を両手で握ると、両足で踏み切るようにして石畳の上へ飛び乗ってみせた。
他愛ないしぐさではあったが、エデンの胸の内に張り詰めていた緊張の糸を緩め、笑いを誘うには十分過ぎるほどだった。
「——ふふ」
エデンが思わず笑みをこぼせば、桂皮色の頬にわずかに赤みが差す。
「……い、いいじゃないですかっ!」
恥じらうように視線をそらしてしまう彼女の隣に並ぶべく、同様の所作をもって街道への第一歩を踏み出す。
行き交う行商人たちの中には不審なものを見るような目で二人を眺める者もいたが、すぐに興味を失ったように通り過ぎて行く。
顔を見合わせて笑い交わしたのち、街道を東に向かって歩み始める。
徐々に小さくなっていく自由市場を眺めながら思い返すのは、初めてこの地を訪れた日のことだ。
あのときは眼前の風景に圧倒され、足元を走る街道の存在など目に映らなかった。
大河の奥側から天に向かって立ち上る幾条ものそれが、人々の魂を浄化せんとする荼毘の煙であることも知らなかった。
わずかだが、変わっている。
あのときよりも今のほうが知っていることは増えている。
滔々と流れる大河が人々にとって欠かすことのできない命の源であり、死して輪廻の環から解き放たれる場所であることも知った。
流れのそばに暮らす人々の思いの一端に触れることもできたが、それが立ち位置によっていかようにも変わる不確かなものであることも学んだつもりだ。
先生の言葉ではないが、今日知ったことが明日も同じとは限らない。
昨日より今日、今日より明日、もっと多くを知っていたいと願う。
導く、とローカは言った。
姿を消してしまうまで深く考えたことはなかったが、彼女が誘おうとした先にはいったい何があったのだろう。
彪人たちの元を旅立ったのは、自分たちの失われた由来を求めるためだった。
過去と記憶とを取り戻し、生きる意味を見いだすための旅だった。
だがあの夜、この町にとどまることを望んだのは誰だ。
ローカと二人、穏やかな毎日を生きる道も悪くないと考えたのは誰だ。
知ることを、学ぶことを、歩むことを拒み、安寧の内に身を沈めることを選び取ったと捉えられても何もおかしくはない。
突然の消失さえもローカの導きの一環だとするならば、今なすべきは足跡をたどることだけだ。
共に歩む道を選んでくれた人がいて、形は違えど思いを同じくしてくれる人がいる。
そして何より、帰りを待っていてくれる人がいる。
どこまでも追い掛けて、追い付いて、もう一度向き合わなければならない。
また会えたなら、言葉を交わし、思いを通わせ、全てを伝えよう。
気付けば手は後頭、束ねた毛を結わく組み紐へと伸びていた。
「——待ってて。一緒に帰ろう」
不意に思いが口を突いて出てしまい、慌てて隣を歩む少女を見やる。
シオンはあきれつつも口元に少しだけ笑みを浮かべ、「気の早い話ですね」と呟いた。
第二章 「自由市場 篇」 〈 完 〉
『百从のエデン』第二章、「自由市場篇」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
ここまでのお話、お楽しみいただけましたでしょうか。
消えた少女を追って旅に出た少年の行く先、引き続き見守っていただけるとうれしいです。
よろしければこのまま、第三章「吟遊楽団篇」にお進みくださいませ。
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