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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第二章  自由市場(じゆういちば) 篇   第七節 「どこまでも広き世界へ」
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第百九十五話  大 河 (たいが)

 ふと気付けば、辺りには議論を切り上げた子供たちが集まっていた。

 今日が出立の日であることを聞き及んでいたのだろう、ムシカら五人だけでなく、先生の生徒である十数の子供たちが口々に励ましの言葉を寄せてくれる。

 ムシカの顔にいつかの路地裏で見た怯えの色はなく、マルトらから受ける印象もあの日とは大きく異なる。

 子供たちから贈られる歓送の声に、そしてつい先ほどまでの毅然とした態度を打ち捨てて涙交じりに手を振る先生に背を向けて歩き出した。


 沸き上がる歓呼の声に、足を止めることなく後方を振り返る。

 そこには包みから取り出した何かを子供たちひとりひとりに配って回る先生の姿があった。

 子供たちの手に渡った棒状の白色、それがなんであるかをエデンは知っている。

 先生は蔵書を売って得た金の半分を二人の旅の路銀に、残り半分を子供たちが学ぶための教材費に充てたいと語った。

 必要な旅具の買い出しの傍ら、エデンとシオンは先生のたっての求めに応じて子供たちに贈る最もふさわしい品がなんであるかを考えた。

 石や岩が塗板代わりになり、常に持ち歩くことができ、学ぶことを善しとしない者の目から隠すことのできる小さな白墨を選んだのは、ムシカの抱えていた葛藤を知っていたからだ。

 白墨を胸に涙するムシカとめいめい喜びと高ぶりを表す子供たちを眺め、先生と二人の嘴人の思いが決して間違いなどではないことを実感する。

 皆が手にした小さなそれがすり減って無くなる頃には、何かが変わっていてくれることを願うばかりだ。 



 河沿いの道を行き、大河に架かる橋を渡り、正市民区の河辺を自由市場の出入り口に向かって進む。

 弓袋ゆぶくろ矢筒やづつを結び留めた背嚢を負い、自らの手で選んだ書を胸に抱いて歩くシオンを横目で眺めていたところ、視線に気付いた彼女と顔を見合わせてしまう。

 わざとらしいしぐさで前方に向き直ったエデンは目のやり場を辺りに探り、傍らを流れる大河の河面に視線を落として歩く。

 先ほど先生が語ったこと、河底に巨大な異種の亡骸が沈んでいるというのは本当なのだろうか。

 危ぶみ、怯え、恐れている対象であるはずの存在が、日々の暮らしの最も近い場所にいるというのは。

 歩きながら恐る恐る河面をのぞき込んでみるも、当然底を見通すことなどできるはずもない。

 前方と河、時折シオンを横目に眺めつつ歩を進めていたエデンは、隣を歩く彼女が足を止めるところを目に留める。


「貴方はこの町の人たちを恨んでいますか」


「え?」


 倣って立ち止まったエデンに対し、シオンはやにわに問いを投げ掛ける。


「得るために奪う以外の選択肢を持たない準市民区の子供たち。貴方を助けなかった正市民区の大人たち。貴方はそんな人々のことを恨みますか?」


「そ、それは……」


「外からやって来た貴方であれば、偏りなくこの町の今を捉えられると思うのです。こちら側とあちら側の双方を知る貴方の目に、狭い世界とそこに暮らす人々がどう映ったのかを知りたいのです」


 そこで一度言葉を切り、続けて辟易するように呟く。


「……此方こちら彼方あちら、そもそも観測する地点によって示す場所の変わる呼称が不適切なのでしょうね」


「自分は——」


 頭を抱えて考え込むエデンを急かすでもなく、足を止めたシオンは大河の方向を眺め続けていた。


 恨むという感情とは少しばかり違うが、悪い感情をまったく抱いていないといえばそれはうそだ。

 ムシカが心を入れ替えてくれたこと、マフタとホカホカに対して謝罪をしたことは立派だと思う。

 だが、二人が許そうともムシカが犯した罪が煙のように消えるわけではない。

 ムシカ本人にも伝えたが、もしも犯意を向けたのが二人でなかったとしたら、反省や謝罪をする暇を与えられることなく命を落としていたかもしれないのだ。

 そしてムシカが命を奪われたとなれば、残された友人たちの心にはさらなる憎しみが宿っていたことだろう。


 他方、自分も自分で極めて危うい立場にあったと感じるのも確かだ。

 ラバンは対岸へ渡ることを厳しく戒めた。

 それが準市民区の人々の暮らしぶりと抱える危うさを知る彼だからこその配慮であったことは明らかだ。

 だが、もしもラバンに準市民区での暮らしの中で何かをなくした過去があったとしたらどうだ。

 準市民区の住人たちに大切なものを奪われ、正市民区の住人たちから不当な扱いを受け、奪われる側に回っていたとしても何もおかしいことではないだろう。

 共に日々を過ごすうち、悪感情の影響を受けて価値観が偏らなかったとは言い切れない。

 いつかのこと、悪意は巡るとマフタは語った。

 人の間を巡るうちにだんだん大きくなっていき、やがて自分に返ってくるものだと言っていた。

 そのときは捉え切れなかった彼の言葉が、今ならば少しだけ理解できる気がした。


「——愛」


「え……? あい、ですか——? きゅ、急に何を……」


 シオンははじかれたように振り向き、いくらか取り乱した様子で答える。


「うん、愛。いつか言ってたよね、シオン」


「は、はい。言った——と思います」


 初めて出会った日、シオンは人と人をつなぐ絆の名を愛と語った。

 これもまた当時は理解できたとは言い難かったが、第二の故郷とも呼べる場所に背を向けて歩き出した今ならば、身に染みて知ったと言っても大げさではない。

 共に寝起きし、食卓を囲み、喜びや苦しみを分かち合ったラバンとラヘルの存在は愛そのものだ。

 二人だけではない。

 偶然出会い、友誼を結び、別れを告げた皆の顔を思い浮かべれば、そこには確かに千言万語を費やしても表現し得ない結び付きが感じられる。

 巡るは悪意だけではないとマフタも言っていた。

 善意もまた輪のように円を成すものだと。


「みんな大事なものがあって、それを守ろうとしてる。自分のこと、誰かのこと、みんなのこと、もっと大きな輪っかのこと。……そこに愛があって、だから駄目だってわかっていても選ぶんだ」


 腰に差す剣をちらと一瞥し、旅立って間もない頃のことを思い返す。

 大切なものを守るためには、いかなる手段をも辞さない覚悟を定めたはずだ。

 先生が授業の題材として掲げた正しさがちくりと胸を刺すが、それでも何度でも同じことをするだろうと思う気持ちに変わりなはい。

 あのとき守るべきはローカだけだったが今は違う。

 消えたローカを捜す旅に同行を申し出てくれたシオン、絶対に守らなければならないものがひとつ増えたのだ。


「自分も同じことをするよ。……守れる力がなくて、正しさを貫けなくて、でも大事なものがあって。そんなときに間違ったやり方を選ばないっていう自信はこれっぽっちもないや。生きていたら友達ができたり、妹や弟——家族ができたりして、きっと守らないといけないものが増えていくんだ。だから恨む恨まないじゃなくて、恨めない——かな」


「それが貴方の答えですか」


 大河に視線を据えたまま、呟くようにシオンは言う。


「うん。自分はただ運がよかっただけで、どっちにでも転がってたんだ。恨まずにいられたのは、この町に来てみんなに会えて、大切なことをたくさん教えてもらえたから。……ううん、違う。もっとずっと前からなんだ。見つけてもらって、拾ってもらって、そこから始まってる。空っぽから始まって、少しずつ知って、学んで、こう——輪っかになれた」


「輪っか」


「うん」


 繰り返すシオンを前に、いつかマフタがしたように指先で円を描いてみせる。


「こっちの人たちもあっちの人たちもみんな自分の輪っかを持っていて、それは小さかったり大きかったりするけれど、同じ愛の形なんじゃないかって思う。先生とシオンが自分やローカをその中に入れてくれたみたいに、言葉を交わせば輪っか同士はつながれる。でもそれを簡単じゃなくしてるものがあるとしたら——」


「この大河、ということですか」


「そうかなって。もちろん河そのものがみんなにとって大切なものだっていうのは知ってるけど、じゃあこの河がなかったらどうだったんだろうって」


 命の水を供給する源として、貨物を運ぶ航路として、そして信仰の対象として、大河が自由市場に暮らす人々のよりどころとなっていることを知った。

 だが一方で、物理的にも心理的にも大河が両岸を分断していることもまた否定し得ない事実だ。

 大河が存在しなければ異種が流れを下ることもなく、あちらこちらと互いを遠称で呼び合わせるための境界もなかったのだから。


「あっ! でも河がなければこの町自体が初めからなかったんだ……! ちょっと待って、もう一回考えるから——」


「それはいいです。ある、という前提で大丈夫です」


「う、うん。ある——うん、ある。……その、思ったのはね、町があってそこに人がいれば、同じなのかもってことなんだ。河がなければまた別の境目があっただけで、縦、横、斜め、線はどんなふうにでも引けるんじゃないかって。それで自分たちで内と外を、あっちとこっちを区切るんだ。だから輪っかを作るのも線を引くのもどっちも同じ人なんだ。そうやって一度形を作ってしまえば、考えるのも決めるのも自分でやらなくていいから」


 話しながら横目で顔をうかがうと、シオンは思いを凝らすかのように眉根を寄せている。

 その様子に話題が横道に反れてしまっているのではと思い至り、本筋に戻すべく懸命に頭をひねる。


「え、ええと! ……その、つまり、自分も守りたいんだ。弱いくせにってムシカに笑われちゃうかもしれないけど、強くなってローカを連れて帰りたいし、シオンのことも守れたらなって思う。そうやって愛を示し続けていけば、ぞう——憎む気持ちの本当の顔も見えてくるかもしれないかなって。だから恨む恨まないも誰かから借りてくるんじゃなくて、ちゃんと自分の物差しで判断できるようになってからかな。その、これでどう……?」


 やはり求める答えではなかったのか、シオンは顔を伏せたまま固まってしまったように動かない。

 しばしの間を置いて「ふう」と深いため息をついて顔を上げた彼女は、背嚢の肩紐を握って再び大河の方向に向き直り、当惑とも感心ともつかぬ調子で言った。


「どう、じゃありません。……ありませんが、貴方らしい答えですね」


 大河を見詰める少女の横顔には、うっすらとだが笑みが浮かんでいる。

 望まれた回答ではなかったかもしれないが、完全に見当違いの受け答えをしていたわけではなさそうだ。

 安堵の胸をなで下ろしていたエデンは、彼女が言いにくそうに口をもごつかせているところを目に留める。


「……エデンさん、時にですね」


「うん、何かな」


「最初に言い出した私が言うのもどうかと存じますが、むやみやたらに用いるべきではないと思います。——その、愛」


「え? ……そ、そうなんだ。うん、わかった。シオンが言うなら」


「荷物と一緒です。あまりたくさん抱えてしまうと身動きが取れなくなります。……適切な量を守っていただけないと私も困りますので」


 気難しげな顔をして背嚢を揺り上げると、シオンは「行きますよ」と言い捨てて先へ進み始める。

 つかつかと歩む彼女を追って隣に並び、足並みを合わせて歩きつつ横顔をちらりと一瞥する。

 再び交わる視線に、シオンはまたもや露骨なしぐさで目を背けてしまった。


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