第百九十四話 贐 餞 (はなむけ) Ⅳ
「……そうなんだ、そんなにすごいものだったんだね」
先生は剣を振るう手を止め、再び刃を頭上高く掲げる。
陽光を映して仄かに輝く刀身を仰ぎ見て、エデンは我知らず感嘆の声を漏らしていた。
手首をひねって刃を返した先生もまた、眇めた目で剣を見上げて口を開く。
「そうですね。もしもこの剣の素材に成り得るほどの齢の異種が現れたとしたなら、この町に暮らす人々はあらがうすべを持たないでしょうね」
先生が何げなく呟いた言葉に、思わず驚きの吐息がこぼれる。
それまで傍らで話を聞いていたシオンも、緊張にびくりと身を震わせるのがわかった。
剣の刃からエデンら二人に視線を移した先生は、優しく説き聞かせるような口調で言い添える。
「なに、現れたとしたらですよ。私の知る限り、近隣の集落を含めてここ百年の間にそのような異種が姿を現した例はありません。これから先もその限りとは言い切れませんが、人の身としてはその日が訪れないことを祈るばかりです」
希望的な物言いながらも、先生の口ぶりにはどことなく諦念がにじむ。
「しかしながら異種のもたらす恩恵なくして満足に生きることの適わぬ人が異種によって滅びを告げられるのであれば、それもまた宿世の因縁です。私たちがこの地に居を構えていられるのも異種の賜物なのですから、恩恵のみを享受し、負の側面から目を背け続けることは難しいでしょうね」
先生の言葉の意味するところをつかみかねて頭をひねるエデンに対し、先生は小さくうなずいて語りを再開する。
「自由市場の成り立ちは一匹の異種の死とともに語られています。大河の水底に沈んだ巨大な異種の亡骸、永劫に朽ち去ることのないそれが河の水を清め、澄んだ水を求めた人が寄り集まってこの町が生まれたという説もありましてね。昔話の域を出ない口伝の類いですが、作り事と一蹴するには少々早計というものです。私も若い頃は何度か河底まで潜ってみたのですが、目立った収穫は得られませんでした」
自嘲を伴った空笑いののち、先生はくるりとひねった抜き身の刃を一瞥もなく鞘に収めた。
「良い物を見せていただき、ありがとうございます。大事にしてあげてくださいね」
由来を耳にしたからだろうか、受け取った剣が普段以上に重く感じられる。
重みとともに湧き上がってくるのは、本当に自分が持っていてもよいものなのかという疑問だった。
ふさわしいか否かで言えば、とても相応とは言えない代物だ。
預かるべきではなかったのかもしれない、突き返してでも受け取らないほうがよかったのかもしれない、そんな考えさえ脳裏に浮かび始める。
浮かべる表情から不安を感じ取ったのだろうか、先生は剣を握る手に触れて安心させるような口ぶりで言った。
「剣は剣ですよ。握るのも振るうのも貴方の手です。言ってしまえば身も蓋もない話ですが——剣は剣、道具は道具です。貴方が間違いさえしなければ道具が独りでに間違いを犯すことはありません。畢竟、抜かずに済むならそれが何よりですからね」
「……う、うん」
答えて腰に剣を差し直すが、なお晴れない気分を感じていた。
力量を顧みず異種に挑んだ先の行為は、先生の言葉を借りるなら確実に間違いだったといえるだろう。
一致協力して助けてくれようとした皆をも間違いに巻き込み、最悪の結果に引きずり込んでいたかもしれないのだ。
「私がさせません」
沈黙を破って口を開いたのはシオンだった。
眉間に皺を寄せ、心底迷惑そうな口調で続ける。
「あんな騒ぎは金輪際御免です。済んでしまったことをとやかく言うつもりはありませんが——」
力なく肩を落とすエデンを横目に見ながら言うと、わずかに表情を緩めてみせた。
「——これからは私が正して差し上げます。再び間違いそうになったとき、誤った道を進みそうになったとき、必ず私が止めてみせます。草を翦り根を除き、本を抜き源を塞ぐ。先生が私にしてくれたように、私も貴方に及ぶ災いの原因をひとつずつ解決していこうと期するところです。ですから貴方も、私が間違っていると感じたときは忌憚なく仰ってください」
「……ありがとう、シオン」
「お礼を言われるようなことではありません。私が勝手にしていることですから」
つんと顎先を上向ける様子を満足そうに眺めつつエデンの両手を固く握り締めると、先生はシオンの正面にゆっくりと歩み寄る。
しばし無言で少女の顔を見詰めたのち、先生は静かに口を開いた。
「見送る私から旅立つ貴女に何を贈ることができるのだろうかと、ずっと考えていました」
感慨深げに言っておもむろに懐から取り出したのは二冊の書物だ。
一方はエデンにも見覚えのある書物、何者かの手により著された旅の記録であり、ローカが姿を消すきっかけとなった一冊だ。
もう一方は見たことのない書物で、飾り気のない装飾に加えて表紙には書名も著者名も記されていない。
先生は最初に取り出した紀行を片手で掲げて言う。
「こちらはご存じ件の書です。あれから何度も目を通しました。この書にはこれから貴女たちが訪れるであろう土地と、そこに暮らす人々についての知識がことごとく記されています。知っての通り終着点である大伽藍について記されていたと思わしき頁は失われていますが、この一冊が貴女たちの旅に大いに役立つであろうことは私が保証します」
書を手に語る先生の言葉に、シオンが息をのむのがわかる。
「一方こちらは——」
言って先生は反対側の手に握った飾り気のない一冊を掲げる。
もう一冊の上に乗せて片手でぱらぱらと頁をめくってみせると、シオンは流れていく頁を凝然と見詰めていた。
ぱたんと音を立てて書物を閉じた先生は、どこか厳粛ささえ感じさせるような重々しい口調で少女の名を呼ぶ。
「シオン」
「はい」
答える彼女を見据え返して問う。
「どちらか一冊、貴女が必要とするほうをお持ちなさい」
「私が選ぶのですか……?」
「はい。貴女が選んでください」
「私は——」
シオンは小さく呟いてうつむくと、傍らに立つエデンにちらりと視線を寄せる。
その選択が間違いでないと背中を押すことができるよう、エデンは能う限りの意を込めて首肯を送る。
数瞬の間を置いてもう一度先生に向き合い、彼女は差し出された書物に手を伸ばした。
「聞かれるまでもありません。——そんなの、決まっているじゃないですか」
わずかに震えを帯びた声で言うと、少女は二冊のうちの一冊を手に取る。
両手でしかと捕まえたそれをひしと胸元に抱き寄せたシオンは、相好を崩して見下ろす先生を決然とした表情をもって見上げ返した。
「行ってきます。先生」




