第百九十三話 贐 餞 (はなむけ) Ⅲ
活気に満ちた声を響かせて意見を戦わせる子供たちを慈しみのこもった目で眺めていた先生は、「さて」と思い定めるように呟いてエデンとシオンに向き直った。
「行くのですね」
「うん」「はい」
重なり合う万感を込めた返事に、先生もまた真っすぐな視線をもって応える。
「先生、ありがとう。先生に会えなかったら知らないままだったことがたくさんあるよ。もちろん今も知らないことばかりだけど、それでも知りたいって思えるようになったんだ。自分のことも知りたいけど、まずは手の届くところから始めてみようと思う。自分の目で見て、耳で聞いて、それで知らないことを知っていくよ。短い間だったけど、先生になってくれて本当にありがとう」
「はい。エデン君らしいとてもいい考えだと思います。私も貴方からたくさん学ばせてもらいました。教学相長ずとはまさにこのことと、痛感させられる貴重な毎日でした。こちらこそ、ありがとう」
「それから先生、ずっと言いそびれてたんだけど——」
続けて剣の鞘に触れながら告げるのは、伝える機会を逃し続けていた感謝の言葉だ。
「——これも、本当にありがとう。大事なものだってわかってくれて、一緒に取り返そうとしてくれて、拾ってきてくれた。こうやってここにあることが普通になっちゃったけど、やっぱり大事なものだって気付かせてくれた」
先生と皆が手を差し伸べてくれなければ、剣も大河の水底に沈んでいたか、異種に突き立ったまま上流に姿を消していたことだろう。
命を救ってもらっただけでなく剣まで取り戻してくれた先生には、どれほど頭を下げても感謝の念が尽きることはない。
「誰にでも大切なものはあります。それを取り戻すお手伝いができたのなら、私にとってもこの上ない喜びです。……ふむ。確かによくよく見れば見事な細工ではありませんか。美術や工芸には門外漢の私でも価値のある品だとわかります」
「うん。価値は、物っていうより思いのほうかも。預けてくれた人、見送ってくれた人、みんなとの約束の印みたいなものだから」
腰を屈めてまじまじと眺め入る先生に、鞘ごと抜いた剣を差し出しながら言う。
剣が武具や美術品として高い価値を有していることは皆の反応からも確かだが、価値の所在がそこだけにあるわけではない事情はマフタにも話した通りだ。
先生は「ちょっと拝借」と告げて剣を受け取ると、危なっかしくも見える手つきで抜き放った刃を穴が空かんばかりに凝視する。
「時にエデン君、どちらでこれを?」
「ええと……これは——」
彪人の里で預るに至った経緯を伝えると、なぜか先生は剣それ自体よりも里長ラジャンについて興味を抱いたようだった。
ほとんどが答えられないものだったが、ラジャンの姿形や素性にまつわる幾つかの質問に答えるうち、先生の顔は見る見る色を帯びていく。
「ラジャンさん、ですか!! なるほどなるほど、随分大きく出たものですね!! ……ふふふ、あははは!! ラジャン、王様!! 彼らしい、実に彼らしい名です!! ……ふふふふ」
「先生、ラジャンのことを知ってるの!?」
「なに、古い知り合いですよ。もうすっかり忘れていた、古い古い旧友です」
変わらず角度を変えて刀身を眺めながら、あたかも人ごとのように先生は答える。
先ほどまでとは一転して心底おかしそうに笑うが、瞳にはどこか懐かしむような光が宿って見える。
ここに来て知る思いも寄らない事実に驚きを隠せないエデンをよそに、先生は関心の対象を再び剣へと移していた。
「なかなかの業物ですね。拵の細工に気を取られていましたが、やはり剣の本分は武具ということですか。いやはや、これほど見事な異種殻、めったに見られるものではありませんよ」
「えっ……!?」
先生とラジャンが旧知の仲であるという事実だけでも十分な事件だったが、続けて放たれたひと言はエデンをますますもって驚愕せしめる。
「せ、先生っ……!! い、今、異種って——」
「おや、ご存じなかったのですね。ええ、申し上げた通りです。こちらの剣の刀身は異種の殻から作られたものです」
突然知らされる事実に驚きを隠せず、無理やり言葉を絞り出すエデンとは対照的に、先生は至って普段通りの飄々とした語り口で話し始める。
「異種は人にとって脅威であり資源でもあります。死した異種の残す殻は今や私たちの生活に欠かせないものとなっているのはご存じでしょう。火を熾し、水を澄ませ、風を浄め、土を沃す。用途は多岐に及び、応用次第で他のいかなる物質にも成し得なかった作用を発揮するのが異種殻です。人の暮らしに即した使いどころだけにとどまらず、近年ではさらなる利便を図るための用法が相次いで発見されています。現に私やこの子も——」
指先をもってシオンの目元を示したのち、口根に挟んだ円環を押し上げながら感じ入るように続ける。
「——異種殻を加工して作られたこの眼鏡がなくては、満足に本を読むこともできませんからねえ」
異種の遺す外殻にさまざまな利用方法があると教わったのは彪人の里でのことだった。
当時は思いも寄らない情報だったが、今となってはすっかり当たり前のこととして受け入れている。
ラヘルも調理の際には着火剤として異種殻を使っていたし、大河の水を飲料用にするときには必ず殻のかけらを沈めるようにしていた。
それが眼鏡の名を持つことは初めて知ったが、常に身に着けている以上は二人にとって欠かせない器具であることは明白だ。
異種殻が人に極めて近い位置にあるという事実は十分理解していたつもりだったが、短くない時間をともにしてきた剣が異種に由来するとは思いもしなかった。
先生の手に握られた剣の刃を見上げ、あぜんとして呟く。
「異種の殻でできてるんだ……」
「はい。それも相当大型の個体の遺した殻を用いて鍛えられた逸品です。日常的に使われる品々は異種の中でも小物、過日現れたような比較的小型の個体から作られます。……しかしこの剣はそれらとは大きく違います。長い時間を生き、大きく成長した老齢の異種の外殻は若い個体とは比べ物にならない硬度と靭性を兼ね備えており、極めて高い価値を持ちます。市場に出回ることなどほとんどなく、一部の特権階級や王族のみが手にすることができる高級品なんです。エデン君、貴方がその……ふふふ——」
剣を握ったまま、先生は突然肩を震わせる。
「——ふふふ、あははは……! ——し、失礼失礼! そう、貴方が件のラジャンさんとやらから預かったこの剣は、そんな歳を経た異種の殻を打ち鍛えて作られた品なのです。単一の部位から刃ひと振りを取ることのできる異種、その大きさたるや推して知るべしと言ったところでしょうか」
先生の口から次々と語られる驚くべき話の数々に思考が追い付かない。
旅の供であった剣が異種殻を鍛えて作られたものであること、先生とラジャンが旧知であること、加えて先日大河に現れた異種を評して放ったひと言だ。
確かに彪人たちが鉱山で討ち取った異種よりも小さくはあったが、先生はそれらを小物と呼んだ。
「そう、先ほど異種殻の用途に関わる話をしましたが、戦の道具として利用しようとする者が現れるのも歴史の必然です。部位によっては作業用や調理用の刃物に加工されていましたが、武具への転用は順調には進みませんでした。どんなに優れた職人であっても、異種殻の持つ特性を完全に引き出すことはできなかったそうです。研ぎ澄ますほど切れ味を増す代償として耐久性は失われ、逆に強度を優先すれば鋭利さは見る影もなくなってしまう。異種殻はそんな職人泣かせの素材だったと言われています。名工や熟練工ぞろいと名高い東の職能集団でも鍛え上げることのかなわなかった異種殻の剣、まさかこんな形でお目に掛かれるとは……! ——どれどれ」
エデンの動揺を知ってか知らずか、先生は変わらず語り続ける。
よどみない長広舌とは裏腹に、手にした剣を二度、三度と振るう不慣れな手つきは、つい先ほど旧知の間柄だと語られた本来の持ち主とは比ぶべくもなかった。




