第百九十話 河 梁 (かりょう)
身の程知らずの大言壮語と笑うことなく、先生は無言のうなずきをもって受容の意を示す。
次いで口を閉ざしたまま一度、二度と、胸に刻むように点頭を繰り返したのち、椅子ごと身体をひねった。
「エデン君の気持ちは大変よく理解できました。それではシオン、次は貴女の番ですよ」
「わ、私ですか……?」
椅子に腰掛けた先生が諭すような口ぶりで語り掛けるのは傍らに立つシオンだ。
よほど意表を突かれたのだろうか、ひどく取り乱した様子の彼女を穏やかな笑みを浮かべた先生は黙然として見詰め返していた。
「わ、私はっ! 別に言うことなんて何も……」
声を上げたと思った途端、シオンは消沈したようにうつむいてしまう。
「……ないです」
言ったきり黙り込む彼女に対し、先生もまた言葉を重ねることはなかった。
二人の間に垂れ込めた重苦しい雰囲気の原因が己にあると考えると、エデンは心中穏やかではいられない。
なんとか空気を和らげることはできないものかと押し黙る二人を交互に見やるが、なんと声を掛けていいのかわからない。
いつもならば一瀉千里に語る先生の見せる沈黙に、動揺はますますもって大きくなっていく。
先ほどの決意はどこへやらの周章を見せるエデンに対し、ふと優しい微笑みを向けてくれたのは先生だ。
そして穏やかな笑みをたたえたまま、思い詰めたようにうつむいてしまっていたシオンを見上げて静かに口を開いた。
「シオン。エデン君と行きたいのでしょう」
小さく息を吸い込むとともに、シオンははじかれたように顔を上げる。
目を大きく見開いているのが円環の硝子越しにも見て取れる。
無言で驚きをあらわにする彼女に代わって「え」と小さく声を漏らしたのは、ひとり平静を欠いていたエデンだった。
「幼い貴女の親代わりを買って出たあの日から、このときが訪れた際にどのように振る舞うべきなのかを考えていました。旅立とうとする貴女にどんな言葉を送ってあげられるだろう、どのような顔をして見送ってあげられるだろうと何度も何度も思い描いては、まだそのときではないのだと自分自身に言い聞かせてきました。しかし、それは私が想像していたよりも極めて早く、そして突然に訪れました。エデン君が私たちの前に現れた日、並んで話す貴女たちの背中を見て、とうとうそのときが来てしまったのだと思い知らされました。それはそれは痛切に」
無数の書物が足の踏み場もないほどに散乱する部屋にあって、先生はどこか遠くを見詰めて言う。
「私はどこへも行きません。ずっとずっと先生のおそばにいます。だから——ですから、そんな悲しいことを言わないでください。……そんな目をしないでください」
言って再び顔を伏せてしまうシオンを、先生はまぶしい光に当てられたような細目をもって見詰めていた。
「エデン君。以前お伝えしたようにシオンには私から伝え得る全てを託してあります。ご覧になられたかと思いますが、弓の扱いに関しても私など遠く及ばないほどの腕を持っています。そして何よりこの子であれば、同じ力の持ち主であるローカ君の足跡をたどることも不可能ではないでしょう。貴方はシオンが一緒ではご迷惑ですか?」
「め、迷惑だなんて!! じ、自分はシオンがいてくれたらすごく心強いよ……! 心強いけど、でも……」
突然話を振られて面食らうエデンだったが、思いの外冷静に状況を受け止めていた。
思いを巡らせつつ顔を上げれば、射貫くように見詰めるシオンと視線が重なる。
「……自分の命は自分だけのものだから。これだけは絶対に売ったり買ったり、貸したり借りたりしちゃ駄目なんだ。……だからシオンの心も、シオンだけのものであってほしくて」
北の果てを目指す旅は、先生でさえ挫折するほどの過酷な道のりだという。
たとえ親代わりであれ、学問の師であれ、始まりが誰かからの求めであってはならない。
自らの旅立ちを思い返しながらつっかえつっかえ語るエデンを前に、シオンは目を伏せてしばしの間逡巡に沈んでいた。
ややあって顔を上げた彼女は、哀願するような目つきを先生に向ける。
「でも先生、私がいなくなったらどうするんですか……? 生きていけないでしょう……?」
「いえいえ、そんなことは——」
眉をひそめ、吹けばかき消えてしまいそうな声で問うシオンに、先生は答えかけてはたと口をつぐむ。
「——あるかもしれませんね。こうして人らしい暮らしができているのも、全ては貴女のおかげです。独りのときは食事を忘れて家の中で行き倒れそうになったことや、書に埋もれて圧死しそうになったことも一度や二度ではありませんでしたからね! ははは……はは——」
顎下に手を添えてうなるように答える先生だったが、自嘲のこもる乾いた笑いを上げたのち、わざとらしいせき払いをもってそれをごまかした。
「——いつ頃からでしょうか。書に記されたどんな貴重な知識よりも、既知の常識を覆すほどの発見よりも、日々成長していく貴女を見ていることが私の生きる意味になっていました。出来の悪い親であり続ければいつまでも貴女を私の近くに留め置くことができると、心のどこかでそんなふうに考えていなかったとも言い切れません。教えようとして直前で踏みとどまった事柄も幾つもあります。世界に果てがあると知ったら、人の起源がそこにあると知ったら、そしてそこが私のついえた夢の跡と知ったなら……貴女は居ても立ってもいられずにここを飛び出してしまうかもしれない。ずっと恐れていました。貴女ならきっとそうする、私にはそれがわかっていたからです。なぜなら——」
先生は文机の抽斗に指を添わせながら言い、シオンを真っすぐに見詰めて断言した。
「——貴女が私の知と思いを引き継いだ教え子であり、たったひとりの娘だからです」
椅子を引いて立ち上がり、先生はシオンと正面から向き合う。
「せ、先生、私……」
彼女もまた不確かな足取りで先生の間近まで歩み寄り、すがり付くような手つきで襟元をひしと握る。
「シオン。貴女の内に眠る探究心や好奇心を殺さないであげてください。響き合う世界の声にもっと耳を傾けてあげてください。未知を求めてうずく心のままに、貴女は貴女の選んだ道を歩んでください。私の夢の肩代わりをするのではなく、貴女の意志で道を切り開いてください。……そして貴女だけが持ち得る唯一無二の力でエデン君を助けてあげてほしいのです」
両肩に重ねられた掌と顔を交互に見上げ、何か言いたげなそぶりを見せるシオンだったが、なかなか言葉が出ないのか口を開けたり閉じたりを繰り返す。
「でも——でもっ……」
背伸びするように爪先立ち、訴えるような目でもって先生を見上げ、ようやく言葉を絞り出す。
「……先生、いつも乾いてるじゃないですか」
「これからは毎日忘れずに水浴びします」
肩に手を添えたまま子供のように答えを返す先生を見詰め、シオンは次々と申し聞かせの言葉を投げ掛けていく。
「一度じゃ駄目です。一日五回……いいえ、三回でいいです。できますか……?」
「はい、ちゃんとします」
「食事も毎日食べてくれますか……?」
「はい、毎日必ず食べます」
「煙草も控えてくれますか……?」
「——はい、減らすよう努力します」
深くうつむいて目を伏せ、シオンはささやくような声で問う。
「私がいないと……寂しいでしょう……?」
先生は扁平な手で少女の頭に触れ、こくりと小さくうなずいた。
「寂しくないわけありません。身を引き裂かれるほどの寂しさです。ですが、私も学究の徒である前に子供の成長と門出を祝うことのできる良き親でありたいのです。笑顔で送り出す。それが私を人の親にしてくれた貴女に贈る、せめてもの餞です」
ひと息に言い終えた先生は掌で顔を覆い、シオンは頭部をかしげるようにして先生の胸に額を押し当てる。
そうしてしばらくの間、二人は無言で寄り添い続けていた。
胸を押しやる指先に心を残しつつ先生から離れたシオンが取ったのは、エデンには思いも寄らない行動だった。
床に置きっ放しになっていた手桶を手探りで拾い上げたかと思えば、水の張られたそれを両手で頭上高く持ち上げる。
不意に逆さに返された手桶の中身は激しくこぼれ落ち、当然のことながら彼女は頭から水をかぶる形となった。
「——どうか私も一緒に連れていってください」
水浸しになったシオンは傾いた円環越しにエデンを見据え、決意に満ちた力強い口調で告げた。




