第百八十九話 立 志 (りっし)
「人を生んだ場所でありながら、人の到達を頑なに拒む場所。その大いなる矛盾こそが彼の地に人を引き付けてやまないのです。長く険しい旅の果て、書の著者がそこへたどり着けたのか否かは定かではありません。切り取られた頁以降に旅の様子は記されておらず、巻末の記述は全てそれ以前の時期に書き留められたものだからです。……しかし、こうして一冊の紀行として本の体裁をなしている以上、著者が旅を終えたであろうことは明白でしょう。その旅路が滞りないものであったのか、命からがらであったのかはわかりませんが、少なくとも筆を握れる状態にあったことは確実です」
先生はそこまで話して「ふう」と小さく息をつき、円環越しの瞳でエデンをじっと見据える。
熱のこもったまなざしからは、普段の飄々として捉えどころのない雰囲気はみじんも感じられなかった。
「ところでエデン君。もしも私がこのように推測していると言ったら、貴方はどうお考えになるでしょうか。……この地を発ったローカ君は、北の果てにあるとされる大伽藍に向かった——と」
「ローカが!? そ、そんなわけ……」
「貴方の抱く疑問ももっともだと思います。先ほども申し上げましたが、自由と真理を求めた学者、冒険者、旅人が彼の地を目指したにもかかわらず、そこに至ったと公に知られている者は一人としていません。どれほど屈強な肉体を持つ者であっても、北の地は容易に立ち入ることを許しはしないからです。ひとつの目印もない白き闇に包まれた大地を進むはもちろんのこと、空から越えようとすれば荒れ狂う吹雪によって押し返され、川をさかのぼろうとする者に対しては血すら凍結させる寒さが行く手を阻みます。しかし——」
再度ひと呼吸を置き、書の表紙に指先を添わせながら先生は言う。
「——人が生来的に備える素質や才能、経験と学習によって体得する技術や知識、そういった枠組みを大きく逸脱する異質の才を有した者であれば、あるいは大伽藍への道を切り開くことができるかもしれないと私は考えるのです。……エデン君。貴方やローカ君もお持ちなのでしょう。シオンと同質の——人知をもって計り知ることのできぬ異形の力を」
「そ、それは……」
胸の内を駆け巡るのは、彪人の里から落ち延び、二人連れ立って発ち、この自由市場にたどり着くまでの旅の記憶だ。
先生の言葉を借りるなら、ローカもまた異形の力の持ち主だ。
常に先に立って進むべき道を示してくれたのは疑いようのない事実であり、先生の言うように人としては異質な力を有していることは間違いないだろう。
旅立って以降、彼女の力が誰かに見つかってしまうことを常に恐れ続けていた。
己のことを棚上げにするが、彼女は特異な容姿から人を売り買いする者に目を付けられていた身だ。
加えて不思議な力を持つと知られたら、彼女を掌中に収めようとする者もさらに増えるかもしれない。
二度目の訪問の際、先生とシオンに対して今に至るまでの旅路を語ったときも、ローカの持つ力に関わる部分は曖昧に濁していた。
あのときはそれが最善だと思っていた。
ローカを守るためには、たとえ信頼のおける相手であっても秘密として隠し通すべきだと考えたからだ。
この自由市場においても、ローカは誰かのために力を行使した。
むやみに使ってほしくないと願うのは露見を恐れていたからだけでなく、その行使に大きな負担が伴うことを知っていたからだ。
疲労や消耗を表に出さない彼女の顔が、つらそうにゆがんでいるところは逃亡の日々の中で何度も見てきている。
だからこそ、消えてしまった彼女を捜し出すために、シオンが同じ種類であろう力を行使してくれたことに対する恩は計り知れない。
たとえ姿形が似通っていたとしても、会ったばかりの誰ともわからぬ旅人のために躊躇なく自らの持つ力を開示するのは危険極まりない行為だったろう。
「……うん」
意を決して口を開こうとするエデンに対し、先生は普段よりもなお一層優しい口ぶりで告げる。
「大丈夫ですよ。決して他言は致しません。安心していただいて結構です」
先生は後方を見上げ、シオンと無言のうなずきを交し合う。
「この子の力について知っているのは、先の先までこの子本人と私だけでした。エデン君。私たちは同じ秘密を共有する、言うなれば蓮の台の半座を分かつ間柄なのです」
先生は片目をつぶり、立てた指を細く伸びる口先にあてがいながら言った。
「ありがとう、先生。……シオンも。今まで言えなくてごめん。実は——」
最初に明かしたのは、自身が一切の力を備えていないことだった。
ローカとシオン、二人に触れることで一端を一時的に分けてもらえはするが、自発的に発揮できる力は皆無であること。
続けて、ローカの持つ力について知るところを述べる。
当人が不在の間に語ることには抵抗を覚えなくもなかった。
だが許してくれるだろうと思えたのは、袖を引いて見上げる彼女の姿が脳裏に浮かんだからだった。
エデンが語り終えるのを待って、先生は重々しく口を開く。
「エデン君、これからどうするおつもりですか?」
「自分は——」
ラヘルは呪いを解くための旅を取りやめ、この地でローカの帰りを待ち続けると決めた。
マフタとホカホカは、商人である彼らにしかできない手段で彼女を捜そうとしてくれている。
考えるまでもない。
ローカが帰らないと思い知らされたあの日から、固く思い定めていたことがあるはずだ。
特別な力を持たぬ身である以上、できることはただひとつしかない。
「——ローカを捜しに行くよ」
抱いていた決意を初めて口にする。
「今の今まで当てなんてなかったけど、それでもローカを捜す旅に出ようってずっと考えてた。だけど先生にいろいろ聞かせてもらって、ローカが北を——その大伽藍を目指したっていうんだったら、自分もそこに向かってみようと思う」
「あくまで私の見解です。それでも貴方は?」
「うん。それでも。もし違ったらまた別の場所を捜すよ」
覚悟の程を試すかのように問う先生に、負けじと力強いうなずきで応じる。
「かく言う私もかつて彼の地を目指し、そして志半ばにして膝を折った一人です。決して平易な道のりではありません。過酷な旅になることは請け合いです。それを知ってなお、貴方は旅立つと仰るのですね?」
身を切るような先生の言葉に、一抹の躊躇を覚えずにはいられない。
本当に北の地を目指すことなどできるのか、それ以前に世界のことを何ひとつ知らぬ身で、たった独りの旅を続けることなどできるのだろうか。
不意に襲い来る不安と恐怖に身をすくませそうになるが、暗い影を落とし始めた決意を照らす、たったひとつの光明を見いだす。
それはローカが度々口にした「導く」の言葉だった。
事あるごとに、折に触れ、彼女の口にした言葉。
導きという名の灯火の下、進めた歩みが間違いであったことは一度としてなかったはずだ。
たとえ主が姿を消したとしても、残した言葉と思いは消えない。
「……こ、怖いけど行くよ。ローカが待ってるから」
小さくない震えを伴って口から飛び出すのは、どうにも様にならないひと言だ。
とても堂々たる態度とはいえなかったが、それは今のエデンにできる目いっぱいの決意表明だった。




