第百八十八話 断 章 (だんしょう)
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「やや、エデン君!! よく来てくれました!! どうぞどうぞ、お入りください!!」
先生からの出迎えを受けたエデンは、勧められるがままに屋内へ足を踏み入れる。
着席を促されたものの、例のごとく指し示された場所は当然のように書物にうずもれてしまっているため、木製の丸椅子を捜し出すのにまたもや積み上げられた山をかき分ける必要があった。
文机に据えられた椅子に掛ける先生は、よく見ればうっすらと濡れている。
椅子の下に置かれた平桶にたまった水と、手桶と柄杓を手にして立つシオンの姿から、先生が今まさに水浴びの最中であったことが見て取れた。
捜し出した椅子に落ち着くエデンを認め、先生はシオンにも腰掛けるように掌でもって促す。
「私は結構です」
答えて床に置いた手桶の中に柄杓を沈めると、彼女は先生の後方に控えるように身を引いた。
「はてさて、何から話したものでしょうか」
口の根元に挟んだ円環に手を添えて首をひねった先生は「むむむ」とひとうなりしたのち、覚悟を決めたかのように口を開いた。
「もったいぶっている場合ではありませんね。結論から伝えることにしましょう」
「……うん」
膝に手を置き、前傾気味の姿勢で先生の話を静聴する。
緊張に湧き上がる空唾を喉を鳴らしてのみ込む音が、四方を書物に囲まれた書斎の中でなぜかやたらと大きく響く気がした。
「エデン君。まずはこれを見てください」
先生が文机の上から取り上げたのは、見覚えのある一冊の書物だった。
「それって、あの日の……」
「そうです。ローカ君が手に取り、頁を切り離して持ち去った書です。そして、彼女の失踪の原因である可能性の高い一冊でもあります」
「やっぱりこれが……」
がくぜんとして呟き、先生の手にした書物に視線を落とす。
手に取ろうしたものの、一見するとなんでもない一冊が急にいまわしいものであるかのように思え、伸ばした手は書物に触れる直前で静止する。
「切り取られた頁に何が書かれていたのか、あれからずっと思い出そうとしてきました。不肖ながら学究の徒を名乗る以上、蔵書の内容はあらかた把握しているつもりです。しかし、どうしてもこの書に限っては思い出すことができないのです。それどころか——」
先生は自らの手の中にある書物を不可解そうな目で見下ろす。
「——どこで買い求めたのか、あるいは誰から譲り受けたのかすらもまったく記憶にないのです」
「ですからきちんと片付けてくださいと、目録を作ってくださいと、何度も言っていたのに」
「ええ、そうですね。貴女の言う通りでした。こんなことになるのなら片付けにも時間を割くべきでした。弁解の言葉もありません」
シオンからの鋭い指摘に先生はしゅんと肩を落とし、水に濡れた頭部をぺちりと掌で打った。
「先生、それには何が書かれているの……?」
申し訳なさそうに項垂れてしまう先生に、過日からずっと気掛かりだった質問を投げ掛ける。
問い掛けを受けた先生はエデンを静かに見据え、次いで傍らに立って書物の表紙をのぞき込むシオンを見上げる。
そして大きく深呼吸をしたのち、手にした書物を文机の中央に据え、おもむろに表紙を開いた。
「こちらですが、旅の行程をたどるように記された紀行と呼ばれる書の類いです。大陸各地を巡り、都と呼ばれる大集落から、単一種の暮らす小規模な集落までを訪ね歩いた著者の自筆による旅の記録です。著者名の記載がないため、どこのどなたが著したのかは知り得ませんが、同時代の他の紀行と比較してもそれほど代わり映えのしない一冊です」
「旅の記録……? ローカはそれを見てどうして……」
「この書を目にしたローカ君がいったいどのような考えに至ったのか、残念ながら私には見当が付きません。ただし——」
そこでいったん言葉を切ると、先生は頁をめくる手を徐々に早めていく。
そしてローカによってちぎり取られたであろう部分に差しかかって、ぴたりと手を止めた。
「この紀行の著者は西から東へ、そして南から北へと旅程を進めていたことがわかります。文化水準や生活様式などから鑑みるに、書かれた時代は今からおおよそ百年前ほどかと思われます。大陸全土を巻き込んだ大戦争が起こる以前、異種が目立って人を襲うようになる前の話です。はるばる西の地を発った著者はこの自由市場の前身である宿場を通り過ぎ、東へ向かい、さらに北へと進路を取っています。巻末の数頁は手記や備忘録の形で使われていますので、ここ、ローカ君によって切り取られた部分はおそらく——」
「おそらく……?」
大きく息をのみ、先生の言葉を繰り返す。
「——この著者の旅の終着点ではないかと考えられます」
「終着点……」
「はい。そうです。ここよりはるか北に位置する険峻極まる山岳地帯を踏破したさらに先、未踏の大地の果てにあるとされる人発祥の地であり、多くの学者や冒険家が到達を目指すも、誰ひとり至ることのできなかった場所。——それが私たち学究の徒が『大伽藍』と呼ぶ神の社です」
先生によって語られる話は、想像を容易に上回るものだった。
未踏の大地、人の発祥の地、大伽藍という名、これまでの暮らしとは大きく掛け離れた情報の数々に、まるで頭が理解を拒んでいるようにさえ思えてならない。
己のことさえよく知らない状況で、まさか人の起こりについて聞かされるなどとは考えもしていなかったからだ。
水を打ったように静まり返ったこの場において、衝撃を隠し切れていないのはひとりだけではなかった。
完全に未知の情報だったのだろうか、シオンもまた凍り付いたかのように黙り込んでしまっていた。




