第十八話 銀 色 (ぎんいろ) Ⅰ
終業直後は一刻も早く日当を受け取りたい抗夫たちが、宰領であるイニワの前に列を作る。
少年も水浴びを済ませ、最後尾で自身の番が回ってくるのを待っていた。
日当を手にした抗夫たちはうれしそうに叫びを上げ、あるいは落胆の表情を浮かべながらそれぞれ列を離れていく。
ようやく自身の順番となり、少年もイニワの手から一枚の硬貨を受け取った。
「え、これって……」
鉱山の宰領を務めるイニワは抗夫たちの仕事の成果に応じ、山の持ち主から預かった報酬を配分する裁量権を持つ。
その目は確かであり、手を抜いたり怠けたりした者を見逃すことは決してない。
彼が各部門の代表たちの評価も取り入れた上ではじき出す日当の額は常に適正で、坑夫たちがその配分に異を唱えるところを見たことがなかった。
ここ最近の少年の日当は、銅貨で八枚前後だ。
ある程度納得のいく仕事ができた日は一枚増え、思うようにいかなかった日は一枚減る。
仕事ぶりによって増減する日当は水替えや風廻しの業務に当たっていても同様で、常にどこかからイニワに見られているような錯覚を起こすほどだ。
どうやらその感覚を抱いているのは皆同じのようで、彼の過剰なまでの目配りについては他の抗夫たちの間でも話題だった。
少年は受け取る日当が自身の仕事量に見合っていると自覚しており、他の抗夫たちの半分程度であることにも満足していた。
それが今、掌の上に一枚の銀貨が乗っている。
かすかに白い光沢を放つそれは、青緑色の錆の浮く見慣れた銅貨とは明らかに違う。
銀貨一枚の価値が銅貨十枚に相当することも、この二月の間に学んでいた。
「こ、これ——」
「何を不思議そうな顔をしている。それが今日のおまえの労働に見合った額だ。堂々と受け取ればいい」
「——う、うん……」
掌の上の銀貨を食い入るように矯めつ眇めつしたのち、袖に引っ込めた手でその表面を拭ってみる。
鈍いながらもわずかに輝きを取り戻したそれを夕陽にかざせば、思わず小さな笑みがこぼれる。
「銀貨一枚でそこまで心を動かす者など見たことがない。その程度ならば初日で稼ぐ者もいる。だが——」
言ってイニワは腕組みをし、深々とうなずいてみせる。
「——銅貨一枚から銀貨一枚、たった二月で十倍にまで己の価値を高めた者をおれは知らない。目覚ましい成長だと感心する」
「イニワ、その……ありがとう。あのとき、見捨てないでいてくれて」
「今だから言えることだが、おれも困り果てていた。何ができるのか、何を任せてよいのか、皆目見当がつかなかった。だができないと知ってからのおまえは強かった。できない以上、残された道は二つしかない。できないままか、できるようになるかという二つの道しかな。そしておまえは後者を選び取った」
「え、選ぶなんて……それしかなかったんだ。やるしかなくて、それで夢中で——」
掌の中の銀貨を握り締め、この二月の間のことを思い出す。
意地の一念で働き続けた時間のことを。
「おまえの言葉と行動にはうそがない。過去や記憶を持たない境遇がそうさせているのかもしれないが、おまえと寸分たがわぬ状況に置かれたとて誰でも同じようにはいくまい。それはおまえの強さだ。自信を持っていい。この先どこへ行こうとも、この山で身に付けた力は必ずおまえの糧になる」
「この先……?」
「別にどこかへ行ってしまえと言っているわけではない。おれももうしばらくは稼がせてもらうつもりだからな。だがいつまでもここにいるわけにはいかん。故郷には帰りを待つ家族がいる。おれだけではない。誰もがこの山を離れる日を夢想しながら働いているのだ。アシュヴァルも——おまえも、いつかはこの山を出る。山を出て、おまえだけの道を進むことになるだろう」
「自分の——道……」
この先。
自分だけの道。
昨日アシュヴァルと二人、日当の使い道について話し合ったばかりでもある。
うつむいて考え込んでいたところ、不愛想なイニワが珍しく穏やかな口調で諭すように言った。
「なに。急ぐ必要などない。おれたちは大いなる神秘の意志の下に生きている。日々怠ることなく、おごることなく、なすべきことをなしていれば、迷ったときは精霊が導いてくれる」
「せい……れい——?」
「そうだ。おれの故郷では万物に宿る意志を等しく精霊と呼ぶ。他の種が神とあがめる存在と似て非なるもの。おれもおまえも精霊によって生かされる世界の一部であり、空も大地も、火も水も風も全ては精霊によってつながっているのだ」
「う、うん……」
「そう深く思い詰めることでもない」
聞き慣れない言葉を耳にし、さらに深く考え込んでしまう少年に向かってイニワは続ける。
「目を凝らし耳を澄ませば、存外近くに精霊の姿を感じられるかもしれないということだ。おまえが本当に必要としたとき、精霊は道を示してくれるだろう。そのときがくるまで、己に恥じない生き方をすればいい」
「——わ、わかった……! 頑張るよ——!」
答え、手の中の銀貨を今一度固く握り締める。
イニワは口元を緩めて大きくうなずくと、視線を少年の後方へと投げ掛けた。
その様を目にして振り返って見たのは、手を振ってやって来るアシュヴァルの姿だった。
「明日からも頼む」
言い残し、イニワは踵を返して去っていく。
その向かう先が他の抗夫たちと同じ町の方向ではないのは、宰領である彼にはまだ仕事が残っているからだろう。
「——う、うん! 明日もよろしく!」
背に向かって投げ掛けられる声に、彼は軽く手を掲げて応えてみせた。