第百八十七話 解 撚 (かいねん)
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どうにか機嫌を直したらしいマフタはラヘルを伴ってもう一度部屋中を見て回り、事細かにホカホカに指示を出しつつ幾つかの品を取り集めていった。
ひと仕事を終えて満足げにひと息つく彼から聞くには、数日のうちに地を発つ予定なのだという。
突然の話に驚きを覚えたものの、二人が世界を旅して回る行商人である以上、ひと所にとどまってなどいられないことも十分理解できた。
小さな荷物を小脇に抱えたマフタと大風呂敷を背負うホカホカを、エデンは玄関先まで見送りに出る。
門口辺りでふと足を止めたと思うと、振り返ったマフタはどこかかしこまった面持ちで口を開いた。
「それからラヘル、最後にひとつだけ約束してほしいことがあるんだ」
「ええ、ここまでしてもらったんですもの。私にできることならなんでもするわ」
先ほどまでと比べて明らかに真剣な表情に、ラヘルの顔にもわずかながら戸惑いの色が浮かんでいる。
そんな彼女の反応を知るや知らずや、マフタはどこか思い詰めたような様子で続けた。
「くれぐれも無理だけはしてくれるな。仮にあんたの作る品が想像以上に売れるようになったとしても、あんたには今のままでいてほしい。人には誰しもめいめいの許容量ってやつがある。限界以上の重荷を背負おうなんてしないで、無理のない範囲で品物を作り続けてほしい。……約束、守れるか?」
「うんー!! 作る楽しさー、忘れちゃだめー。だからラバンさんもー、ラヘルさんのことー、ちゃんと見ててあげてねー」
ホカホカもまた、柔和な彼に似合わぬ改まった調子で言い添える。
「はい、必ず守ります」
「誓おう」
「助かる。そんじゃまた、仕入れに寄らせてもらうよ」
胸に手を添えて言うラヘル、深々とうなずくラバン、二人の答えを満足そうに受け止めたマフタは改めてエデンに向き直る。
「じゃあな、エデン。また会おうぜ。旅を続けてたら、いつかのどこかで道は交わるもんさ。遠くないうちにまた会えるような気がするぜ」
「え……?」
含みのある別れのあいさつに、エデンは思わず声を漏らす。
伝えなければならないことは承知していたが、いまだ伝えられていないのが現状だ。
だが口ぶりから察するに、彼はこれから自身がどんな道を歩もうとしているかを知っている。
そしてラヘルとラバンの二人も、おそらくだがそのことに気付いている。
「マフタ、君はどうしてそれを——」
「エデンー!! お別れはまだだけどー、おいらもうエデンに会いたいよー!! 早くまた会えるといいなー!! ……おいらー、エデンに会えてよかったー!! おいらの大切な宝物ー、ありがとうー、ありがとうー……!!」
疑問を発しようとしたところで、涙目のホカホカが胸元にひしとしがみ付いてくる。
何度も感謝の言葉を繰り返す彼の背に触れ、エデンもまた偽らざる本心を口にした。
「自分もだよ。二人に会えてうれしい。きっとローカも同じ気持ちだと思う」
「うんー、そうだといいなー。おいらー、ローカにまだまだお礼言い足りないからー……」
すすり泣くホカホカを力強く抱き締めていたエデンは、ふと注意を引くようなせき払いを耳にする。
顔を上げて目にしたのは、焦れたように足先で拍子を取るマフタの姿だった。
「おーい!! 何やってんだ!? 置いてっちまうぞ!!」
ひとり数歩先を歩んでいた彼は、急き立てるように声を上げる。
「あー!! ……う、うんー!! 待ってー!!」
ホカホカはひどくうろたえ、マフタとエデンの間に交互に視線を走らせる。
しばらく次に踏み切れずにいた彼だったが、最後にもう一度エデンの肩を抱き寄せ、こぼれる涙を翼の背で拭いながら言った。
「またねー、エデンー。ローカのことー、見つけてあげてー」
言うや急ぎ踵を返したホカホカは、先を進むマフタを追って走り出す。
「マフター、待ってよー!! 置いていかないでってばー!!」
「こんの莫迦野郎!! いっつもとろいんだよ、お前は!! いいか!? そんなだから毎度毎度——」
いつもと変わらないやり取りを交わして歩く二人の背を、その場に立ち尽くしたまま見送る。
道を進む中、あるいは曲り角を折れる際、もう一度くらいは後ろを振り返ってくれるかもしれない。
心のどこかでそんなふうに期待していたエデンだったが、結局二人は一度も後方を顧みることなく視界から消えていった。
そうしてしばらく二人の去った方向を眺めていたが、背中にラヘルの声を聞いて振り返る。
「エデン。先生のところへごあいさつに行ってらっしゃい」
「……う、うん」
言わずもがな、今日のうちに先生の元を訪ねるつもりではいた。
昨日の帰り際、伝えるべき話があると先生から告げられていたからというのもあるが、逆に自分から話しておかなければならないことがあるというのが大きな理由だった。
「その、ラヘル、ラバン……」
大切な話を伝えなくてはならない相手は、何も先生たちばかりではない。
目の前の二人にも、己の口から伝えなければならない。
「自分は——」
「そうそう!!」
意を決して口を開きかけるが、ラヘルのぱんと手を打つ音によって遮られる。
「お借りしていたお着物!! お返しできればよかったのだけれど、洗ったばかりでまだ乾いていないの。そちらは私から返しておくことにするから、そう伝えしておいて!」
「——う、うん。わかった。ありがとう」
切り出す機を逸し、結局何も伝えられないまま家を出る。
さまざまな露店の並ぶ大通りを目に焼き付けるようにして歩み、大河に架かる橋へと向かう。
正市民区の河辺には一昨日の騒ぎなどなかったかのようにぞれぞれの生活を営む人々の姿がある。
いつもの橋番は通り掛かったエデンを横目に一瞥したのち、興味なさそうに目を背けた。
準市民区でも、人々の暮らす様に一切の変化は見られない。
道端にたたずむ生気を失った人々も襤褸をまとってごみ拾いをする人々も、一昨日以前と何も変わらないままだ。
異種の襲撃など忘れてしまったのだろうか。
そんな考えが脳裏をよぎるが、そんなわけなどないと頭を振って思い直す。
犠牲になった人たちに知己がいないなどとは言えず、独り者であったとも限らない。
帰りを待つ家族がいたならば、見えていないだけで死を悲しんでいる者は必ずいるはずだ。
それとも今日を生きることに追われ、悲しむことも悼むこともできないのだとしたら、それはなんと寂しいことだろう。
河辺の道を歩いて先生の家に向かう途中、雑多な町並みを駆け抜ける幾人かの子供たちを目にする。
走り去っていく子供たちの中には、ムシカたち五人の姿もあった。
ほんの一瞬ムシカと視線が交差したような気がしたが、彼は足を止めることなく通り過ぎていってしまった。
去っていく後ろ姿を振り返って眺めれば、ムシカたちと同じ鼡人ではない種の子供たちの姿も見られる。
彼らの属する種の名称も知らなければ、大切にしているものも知らない。
もしも人々の営みが変わらないように見えているのだとすれば、原因は外の世界ではなく、もっと別の場所にあるのかもしれない。
狭く未熟な視野では、捉えられる世界は小さいままだ。
「知らないじゃ駄目なんだ」
子供たちの消えた町並みを眺め、先ほど教えてもらったばかりのマフタの言葉を呟いた。




