第百八十六話 気 色 (きしょく)
かつて暮らした鉱山の空、見上げる頭上には絶えず厚い煙雲が立ち込めていた。
製錬の過程で発生する大量の排煙が空を覆い、日中でさえも日の光を遮断していた。
空から降り注ぐのはいつでも灰を含んだ雨で、雨水と鉱山の排水とが混じり合って流れる川もひどく濁っていたことを覚えている。
そんな重苦しい鉛色の空の先に青い空が続いていることを知ったのは、故あって鉱山を離れた後のことだった。
飛び出した世界で見上げた空の、そして天舞う嘴人の脚につかまって空高くから見た景色は胸の奥深くに刻み付けられている。
ラヘルが感じたであろう気持ちと同じように、そのときに見た空の青さはこの先も決して忘れることはないだろう。
「——おい、どうした? 何ぼーっとしてるんだ?」
「エデンー、考えごとー?」
「ご、ごめん……!! その、いろいろ思い出してたんだ、空のこと」
物思いに沈んでいたところを引き戻してくれたのは茶と緑の嘴人たちだった。
心配そうに見詰める二人に謝罪を伝えたのち、エデンは身ぶり手ぶりを交えて自らの体験を語る。
鉱山を発った先で見上げた抜けるような青天のこと、彪人たちの暮らす里へ向かう途次で目にした紺碧の空のこと。
そして風廻しの嘴人ベシュクノの跗蹠を握って空を飛んだことに話題が及ぶと、ラヘルは「まあ」と声を上げて驚き、ラバンも無言ながら目を見開いて驚きをあらわにしていた。
ホカホカに至っては目をきらきらと輝かせ、大きく立派な翼でエデンの手を取り、感極まったように言う。
「うわー!! すごいねー、すごいねー!! おいらも飛んでみたいなー!!」
翼を優しく握り返し、当時のことをひとつひとつ噛み締めるように思い返す。
浮遊感、不安感、掻痒感、奔流のように押し寄せてくる幾つもの感覚に溺れそうになりながらも、空を舞うという行為に激しく心を打ち震わせていた。
異種の襲来という予断を許さない状況の中で目にしたのは、全てを忘れてしまいそうになるほどの美しい眺めだった。
はるか天高くを行く嘴人たちはこんな目線で世界を見ているのかと、強い感嘆を覚えたものだ。
空を舞う、嘴人たちは——。
「あれ……?」
ふと思い立ったように呟き、眼前で目を輝かすホカホカとなぜかそっぽを向くように顔を背けてしまっているマフタを見比べる。
「ねー、マフター!! おいらもねー、エデンみたいに空からの景色を見てみたいよー!! どうかなー、たくさん頑張ったら飛べるかなー?」
嬉々とした表情を浮かべ、ばさばさと翼を羽ばたかせるホカホカの一方で、マフタは翼を胸の前で組み、そっぽを向いてすねたような態度を取っている。
そんな二人の姿を眺めるうち、エデンの脳裏に一つの考えが湧き上がってくる。
小柄な身体から伸びるさらに小さなマフタの翼、そしてかつて出会った嘴人たちと比べて明らかに膨らかなホカホカの体格。
そこから導き出される結論はひとつだった。
「二人は嘴人なんだよね……? その、もしかして飛べ——ない……の……?」
尋ね終える寸前、ものすごい形相でにらみ付けるマフタを目に留める。
ただならぬ様相に思わず口ごもってしまうエデンだったが、答えるホカホカの様子は普段と何も変わらない。
「そうなんだー!! 不思議だよねー!! こんなに立派な羽もあるのにねー、なんでおいらたちは飛べな——」
「んなあっ!! お前は黙ってろっ……!!」
突として割って入るマフタによって、ホカホカの言葉は中途で遮られる。
渦巻く怒りをこらえでもするかのように「ふーふー」と荒い呼吸を繰り返したのち、マフタは震える翼をエデンに向かって突き上げた。
「……いいか、エデンよ。俺はお前がどんなふうにしてここまで来たのか、少なからず知ってるつもりだ。いろいろと事情を鑑みれば心中察するに余りあるとも思ってる。……だからだ。だから一回だけ教えてやる。一回だけだぞ、よく聞いとけ」
「う——うん……」
押し殺したような低い声に気後れを覚えつつも、膝を突いてマフタと視線を合わせる。
周りではラバンとラヘルが心配そうな面持ちで成り行きを見守り、ホカホカは気が気でない様子で状況をうかがっている。
「俺が思うに、お前は何か大きな勘違いをしているようだ。だから今この場で誤りを改めてもらう必要がある」
「……わ、わかったよ」
「いい返事だ」
眉間には深い皺が寄り、顔はひどく引きつっているが、努めて平静であろうとしているのがわかる。
「よくよく覚えとけ。嘴人が誰でも彼でも飛ぶと思うなよ。世の中には飛ばない嘴人もいて、そいつらはそういう生き方に誇りを持ってる。飛ばなくたって何も不便はないし、誰も飛びたいなんて思っちゃいない。けどな、そういう奴らの中にも少しぐらいは——産毛で突いたくらいは気にしてる連中もいる。……だから、これは俺からの忠告だ」
抱えるいら立ちをまるごとのみ込むようにひときわ大きな深呼吸をしたのち、マフタは直前までとは打って変わった説き付けるような口調で言う。
「この先お前は数え切れないほど多くの種に出会うことになる。そいつらは誰しも自分らの文化や矜持なんかを持っていて、大事にしているものもそれぞれ違う。譲れないものは必ずあるし、何が気に障るかなんてのもまったく違ったりする。そんなときにだ、わからなかったや知らなかったじゃ済まないことも絶対に出てくる。気分を害したり、不興を買ってからじゃ遅いんだってこと、お前ならわかるよな」
「……うん。ありがとう、マフタ」
厚意からの忠告に深いうなずきをもって応えると、翼を取って感謝の言葉を口にする。
「大切なことを教えてくれてありがとう。わからない、知らないって言わないために、もっとちゃんと知っていこうと思う」
「ああ。それでいいさ。……まあ、あれだ。俺はまったく気にしないし、怒ったりもしないんだけど——」
嘴をさすりながら呟いていたマフタの身体が突然浮き上がる。
「——お、おい!? な、なんだよ!!」
「マフタは素直じゃないんだからー!! おいらは飛びたいなー、こうやってー!!」
「お、お前っ!! 莫迦!! やめろよ!! 俺は別に飛びたくなんてないんだよ!! だからやめろって!!」
ホカホカは自らの身体を軸にして、抱え上げたマフタをぐるぐると振り回す。
マフタの身をよじっての抵抗にも、一切気に留める様子を見せない。
そうしてしばらくの間、ホカホカは「ふふふー」と能天気な笑い声を上げながら小さなマフタを振り回し続けていた。




