第百八十五話 青 色 (あおいろ) Ⅱ
「ご、ごめん……」
「面目ない」
おのおの至らなさを認めたエデンとラバンが頭を下げても、マフタは一向に怒りを収めるそぶりを見せない。
それどころか二人の謝罪が逆に怒りの火に油を注いだようで、ますます熱を帯びた彼はいきり立つように声を荒らげた。
「そろいもそろってお前らはっ! 謝ればいいと思ってるんだろ!? そんなんだから簡単に騙されるんだよ!! そうだ、全部お前たちが悪い!! 俺がたまたま通りかからなかったらそのときはどうするつもりだったんだ!? いいように奪われるだけ奪われてそれで——」
「はーい、もうおしまいー」
翼を振り乱して憤懣をまき散らしていたマフタの嘴を、ホカホカの翼が包み込むように覆う。
「エデンもー、ラバンさんもー、知らなかっただけなんだからー。そんなに怒らないのー」
「でもさっ!! こいつらがっ……!!」
緑色の翼をぐいと押しのけ、細く長い嘴をさらに突き出すようにしてマフタが言う。
「ほらー、マフター。ご機嫌直してー」
「けどっ……! うぐぐぐ……!!」
「落ち着いてー、落ち着くよー」
ホカホカに優しく背中をさすられるうち、徐々にだがマフタの興奮が静まっていくのが見て取れる。
逆立っていた羽毛がないでいく様を認めるや、ホカホカはマフタを背中から抱きかかえたまま深々と頭を下げた。
「マフタがごめんよー。ちょっとだけ気が短くて怒りっぽいだけなんだー。でもねー、悪気はないんだー。マフタはー、エデンやラバンさんみたいな優しい人たちがー、損をしたり割を食ったりするところを見たくないだけなのー。だから本当はねー、二人に怒りたいわけじゃないんだってわかってくれるー……?」
「……うん、なんとなくだけど」
「すまなかった。俺が浅はかだった」
「二人ともありがとうー!! わかってもらえてー、おいらもうれしいー!! ねー、マフター?」
エデンとラバンがそろって答えると、ホカホカはほっとしたように顔をほころばせる。
ふてくされたように視線をそらしていたマフタもまた、渋々といった様子で口を開いた。
「……まあ、そういうことだ。俺はこいつとかお前らみたいな正直者が莫迦を見るのが許せないんだよ。……わかってるって。少し言い過ぎた。悪かった」
小声で謝罪の言葉を口にするマフタの顔をうれしそうにのぞき込むと、ホカホカは青色の粉末の収められた小瓶をラバンの手に握らせる。
「はい、これー。とっても奇麗な色だねー。ずっとずっと遠くまで続いてる空みたいなー、そんな青だよねー!!」
「そうだな。……空だ。俺は空が描きたかったんだ」
ラバンは受け取った小瓶を頭上に掲げ、指先でつまんだそれを細かく振ってみせた。
「それはラヘルのため?」
以前に二人から聞いている。
人々の差別と好奇の目から遠ざけるため、狭い部屋に閉じ込められていたラヘルの話を。
窓さえない部屋で幽閉も同然の暮らしをしていた彼女に、ラバンは日々描いた絵を通して外の世界を見せていたのだと。
「絵を描いて届けることでラヘルの心を慰めることができている。若く未熟だった俺はそう信じて疑わなかった。だが、今になって思い返してみれば、自分に酔っていたのだろうな。酒はやらんが——そういうものと聞いている」
「……ふふふ」
ラヘルが小さな笑い声をこぼしたことで、それが彼なりの冗談なのだと理解する。
目を閉じたラヘルは、過去の大切な記憶に思いをはせるかのようにラバンの言葉を継ぐ。
「ラバンの描いてくれた絵で、私は初めて外の景色を目にしたの。森も川もお花畑も、たくさんの人が暮らす町の営みも、全部全部ラバンが教えてくれた。箱の中の小さな世界の寝台の上で、私は毎日一枚一枚を並べ直して、組み直して、私だけの世界を広げていった。ラバンが描いてくれる中でも私が一番好きだったのが空の絵。一度それを伝えたら、空しか描いてくれなくなっちゃったんだけれど」
「そうだったか。すまないが覚えていない」
ラヘルはもう一度「ふふ」と小さく含み笑いを漏らし、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
気まずそうに視線をそらすラバンを、彼女は懐かしむような目で見上げていた。
「同じ画題を描き続けたからかしら、ラバンの絵、みるみるうちに上手になっていったわ。何も変わらない毎日の中で、私はそれだけが楽しみになっていった。気付いたら朝も晩も扉の下を気にしてた。いつ新しい絵が見られるのかしらって、それだけが楽しみで楽しみで」
「俺も同じだ。独り善がりとわかっていながら屋敷の仕事の合間を見つけてはひたすらに筆を執り続けた。扉の隙間に差し入れた絵が内側から引き抜かれる瞬間だけが俺の喜びだった。気がつかないのか、寝てしまっていたのか、いつまで経っても絵がそのままだったときなどは、時間の許す限り扉の外で待ち続けていたものだ」
今度はラバンがラヘルの後を引き継ぎ、平坦な口調の中にわずかな恥じらいの色をにじませつつ語る。
「ラヘルを喜ばせるために俺は絵の腕を磨いた。そしてこれを——」
言ってラバンは手にした小瓶を感慨深げに見詰める。
「——自分で言うのも気が引ける話だが俺は相応に出来の良い子供だった。わがままのひとつも言わず、欲しがることもせず、命じられる通りに働き続けた。申し分のない使用人であり、聞き分けの良い子供だったと思う。だからこそ主人——義父も、俺が何かを欲しがるなどとは考えもしなかったのだろうな。いつかの誕生日、俺は初めてものをねだった。『ご主人様、どうしても欲しいものがあるのです』とな」
「それがこれ……?」
エデンは下からのぞき込むようにして青色の小瓶を見上げる。
「そうだ。はるか遠方の地でしか産出されない瑠璃を擦り砕いて作られた貴重な顔料。俺はこれが欲しかった。本物の空を描くにはどうしてもこの青が必要だったからだ。子供が欲しがるにしては値の張る品だったが、主人は何も聞かずしかるべく取り計らってくれた。だが苦労して手に入れてもらった顔料も結局使わずじまいになった。——そうだ。俺たちが屋敷を出たのはそれからすぐのことだった」
見交わす二人の顔には、過去を忌みつつも在りし日を懐かしむような表情が浮かぶ。
「……ええ、そうだったわ。夜の間にラバンに連れ出してもらって、それで私は初めて自分の目で外の景色を見た。夜が明けて日が昇って白んでいく空……ラバンに手を引かれて歩く中で見たあの青——今でも目に焼き付いて離れない」
壁際まで歩を進め、ラヘルは開け放たれた窓から外を眺める。
「この町の空はいつだってかすみが掛かったみたいに煙っているけど、私はこの空も好き。奇麗過ぎない、鮮やか過ぎない、まぶし過ぎないちょうどいい空よ。こうして見上げる薄曇りの空の先にいつか見たあの一面の青がつながっているんだって考えたら、この灰色さえも愛おしく思えるわ」
窓の下枠に手を添えて振り返ったラヘルは、すんすんと鼻をすすりながら涙ぐむホカホカに向かって微笑みかける。
「空はどこまでも続いている、そうでしょう?」
しゃくり上げつつも繰り返しのうなずきで同意を示すホカホカを眺めるエデンもまた、初めて目にした青色の空を思い起こしていた。




