第百八十三話 経 緯 (たてぬき) Ⅱ
「——ありがとう、エデン。貴方にそう言ってもらえてとってもうれしいわ。私ね、何かを残せるだなんて思っていなかった。生きた証をこの世に遺すことなく消えてしまうものだとばかり思ってたから。……だから誰かが私の話を聞いてくれることや、私の作ったものを手にしてくれることが本当にうれしいの」
頬を緩めたラヘルは「ちょっと待ってて」と言い置いて寝室に引っ込んだかと思うと、程なく両の掌で何かを包み込むようにして戻ってくる。
「エデン。これを見て」
宝物か何かを収めた箱の蓋を開きでもするように、ラヘルはかぶせていた掌をそっと返す。
「これは……?」
上向きの掌に乗っていたのは、なんの変哲もない一本の紐だった。
部屋のあちこちに点在する品々と同じく飾り編みによって作られた紐だが、よく見れば一部に編み目のふぞろいな箇所が見られる。
端から端まで目でなぞるようにたどれば、拙い手並みでもって編み始められたであろう紐が、編み進むに従って徐々に整った形を成していく変遷が見て取れた。
「これはね、あの子が作ったの」
「これを——ローカが……」
不意に頭をよぎるのは、時折何かを隠すようなそぶりを見せていたローカと、そんな彼女と秘密を共有するかのように笑み交わしていたラヘルの姿だ。
「完成まではいかなくて最後のほうは今朝私が編んでしまったのだけれど、それでもあの子が頑張って作ったのよ。——貴方のために」
「自分のため……?」
「ええ、そうよ。エデン、後ろを向いてくれるかしら?」
「……う、うん」
言われた通り背を向けると、ラヘルの手がそっと後頭に伸びる。
絡まってもつれた毛を後方へ向かって流すように繰り返し指先ですき、首の後ろで束ねたそれを、彼女は手にした紐で結い始める。
「はい、出来上がり」
両手を後ろ手に回し、まとめて結んでもらった後頭部の毛に触れる。
鉱山で大ざっぱにそぎ切ってもらって以降、切ることはおろか整えることもしていなかった。
日々の暮らしの中で、あるいはラバンと一緒に働く中で、多少なりとも邪魔だと感じたことはあった。
目にかかるそれを頭を振るって払い、指先でかき上げていたこともあっただろう。
自分でも気付かず半ば無意識のうちに行っていたしぐさの数々に、彼女は目を留めていてくれたのだ。
「ローカが自分のために……」
「とてもよく似合ってるわ」
「……うん」
目を眇めるラヘルを正面から見詰め返し、こくりと首を縦に振る。
伴って揺れる毛束が首筋を擦る感触には、慣れないながらどこかすがすがしささえ感じられる気がした。
今一度確かめるように毛をくくる紐に触れる中、ラヘルとラバンだけでなく、手を止めたマフタとホカホカの視線もが自らに注がれていることに気付く。
「も、もう終わったの……?」
なんとなく覚える気恥ずかしさに、後頭を手で覆い隠しながら尋ねる。
「ああ、見せてもらったよ。細部にまで注意が行き届いてるし、卒のない出来栄えだと思うよ」
「じゃ、じゃあ——」
もしも商品として買い取ってもらえるのであれば、作品の代金として得られた金銭はラヘルの身体を治療するための大きな足掛かりになるだろう。
たとえ町を出るにしてもとどまるとしても、先立つものはあって困ることはない。
やにわに顔を明るくさせるエデンに対し、マフタは待ったをかけるかのように翼を突き出し、眉間に小さな皺を寄せて神妙な口ぶりで続けた。
「……でもな、商品にはならない代物ばかりだ。少しばかり乱暴な言い方で悪いが、どれもお嬢さんの手遊びの域を出ていない。相当の物好きでもない限り、わざわざ金を出して買おうって気にはならないだろうな」
「そ、そんなっ!!」
マフタの放つ舌鋒鋭い言葉に、思わず不服の意が口を突いて出る。
翻心を嘆願すべく膝を突くが、マフタが顔に映す重々しい色を見て思いが揺らぐ。
再び立ち上がって周囲を見回し、助けを求めるように視線を投げ掛けたのは、一歩引いて状況を見守るホカホカだ。
普段ならば進んで仲立ちしてくれたであろう彼が申し訳なさそうに首を左右に振る様が、落胆をさらに大きくさせる。
「で、でも……」
「いいのよ。まったくもってその通りなんだから。買い取ってもらえないかって、市場に持っていったことも何度かあったわ。少しでも生活の足しになればいい、ラバンの負担を軽くできればって。でもおなじみさんがご厚意で手に取ってくれる以上のことはなかった。……ちょっとだけ期待していなかったって言えばうそになるけどね」
辛辣な言葉に少なからず動揺を覚えた様子ではあったが、ラヘルは思いの外冷静に状況を受け止めていた。
そんな彼女の反応を前にし、なぜかマフタは満足げな笑みを浮かべて口を開く。
「それがわかってるなら話は早いよ。もちろんがらくた市かなんかに出したなら同志同輩連中が祝儀代わりに一個二個買っていってくれるかもしれないが、それは商売なんて呼べない。商売じゃないなら、俺らの出る幕じゃないからな。……だからそうだな、今ここでどうしても値段の付けられる品をひとつ選べって言われたら——」
言いながらわざとらしく部屋中を見回したマフタが指し示したのは、おそらく部屋中のどんな品よりも不出来なひと品だった。
「——まあ、それかな」
「えっ!? こ、これ? これは駄目だよ!!」
「何も奪い取ろうってんじゃないさ。例え、ものの例えだよ。だからそんなに焦るなって」
後ろ頭を両手で覆い隠して後ずさるエデンに対し、両の翼を前方に突き出したマフタがなだめるように言う。
小さく嘆息してラヘルの足下へ歩を進めた彼は、部屋の中をぐるりと見回しながら続けた。
「いいか、ラヘル。ここにある全て——あんたの作ってきた品には、商売に一番大切なもんが欠けてる。——そう、受け手がいないのさ。そりゃそうだよな、作り手であるあんたの抱える孤独とか鬱屈とか、そういう諸々の感情をぶつけるための身代わりでしかなかったんだからな」
部屋中に溢れる作品を見上げながら言うと、マフタは再びエデンの後頭を翼でもって示してみせる。
「だが、そいつは違う。ローカが作ったそいつは出来としちゃあいまいちだが、強い思いが込められてる。渡そうって相手のことを考えて作られた品物ってやつは、やっぱり何かが違う。今のあんたにならわかるはずさ」
「……そうね」
マフタを追って部屋中に視線を巡らせたラヘルは、今にも消え入りそうな声で呟いた。
「かわいそうな子たち……」
「まあそう言ってやるなって。悲観したものでもないからさ。これは——あれだ、盗み聞きしてたわけじゃないぞ。自然と耳に入っただけだからな」
入念に前置きしたのち、翼を下嘴にあてがったマフタは「んん」とせき払いを放つ。
「誰かが自分の作ったものを手にしてくれるのがうれしいって言ってたよな。最初はそれでいい、これからはどっかの誰かのことを思い浮かべながら作るのさ。誰かの手に届いたらいい、何かの役に立ったらいい、なんならもっと大風呂敷広げてさ、手にした奴を幸せにできたらいいな、ぐらいでも大げさ過ぎるなんてことはないと思うぜ。——だからさ、そんなふうにして手を動かし続けるんだよ。届けたいって願う気持ちは、必ずどこかの誰かに届く。顔も名前も知らないどこかの誰かが、必ずあんたを見つけてくれる。そういう気持ちでもの作りをしていこうってんなら、俺たちも迷わず売り込めるってもんさ」
マフタはいかにも誇らしげに言い、昂然として胸を張る。
感服したかのような表情を浮かべたホカホカもまた、繰り返しのうなずきをもって同意を表している。
ふとマフタから送られる片目をつぶっての目配せに、エデンは緊張が解けて頬が緩む思いを感じていた。




