第百八十一話 得 失 (とくしつ)
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ラバンとラヘルの二人と共に、エデンは自宅へと戻るため準市民区側の河沿いを歩んでいた。
本心を言えばローカがどこかで生きていると語ったシオンからもう少しだけ話を聞きたかったが、彼女の心身の状態を鑑みて今日のところは場を辞することを提案したのはラバンだった。
前のめりに詰め寄ろうとしていたところを制され、またもや分別を失いそうになっていたことに気付かされる。
再度の訪問を期す旨を伝え、エデンは先生の家を後にしたのだった。
よく考えれば当然だったが、足並みをそろえて歩んでみれば、シオンだけでなくラヘルの体調も優れないことに改めて気付かされる。
外出することすら珍しい彼女に足を延ばさせ、短くない時間心を砕かせ続けたのだ。
わずかでも歩みの助けになるようにと身を添わせるのは、せめてもの罪滅ぼしのつもりだった。
「懐かしいわね、こっち側の景色も」
「そうだな」
準市民区の街並みを眺めてささやくように言うラヘルに、珍しく感情のこもった口調でラバンが相づちを打つ。
「もう二度とこちら側からの景色を見せることなどないと思っていた」
はたと足を止めた彼は、対岸の正市民区を眺めて言う。
傍らに並んだラヘルもまた、同じ方向を見据えて思い入るように口を開いた。
「あの頃は河の向こうに住んでいる人たちのことが憧れで、うらやましくて、ねたましかった。故郷では当たり前にしてもらっていたことがまったく当たり前なんかじゃなくて、とてもありがたいことなんだって身に染みて知ったわ。自分の手で投げ捨てたものが、無性に恋しくなる日もあった。無理やり付いて来たのに何もできない自分がもどかしくて、いら立たしくて、焦れば焦るほど貴方に迷惑を掛けた。何をしても足を引っ張ってばかりで、何もしないほうがいいのかもって……それで私は考えることを諦めてしまった。そこからの私は貴方に薇発条を巻いてもらうだけの人形……人の形をした、人じゃない何かだった」
自らの犯した罪を告解でもするかのようにラヘルは語る。
無言で大河を見据えるラバンと、河の向こう側のさらに先を思い送るように眺めるラヘル。
同じ場所にあって別の場所を見ているかのような二人を、エデンは穏やかとはいえない心持ちで見上げる。
「昔の話」
不安げな視線に気付いたのだろう、ラヘルは自らに言い聞かせるかのように呟いた。
「大丈夫よ、今はちゃんと生きている。ラバンがくれた命がここにあるんだって、確かに感じているもの。誰も知らない場所で死んでいくんだって思っていた私は、もう一度生きる意味をもらったの。——ねえ、ラバン。あの日のこと、覚えているかしら?」
首元を飾る付け襟に触れて言うと、彼女は変わらず大河を眺め続けるラバンに向かって問い掛ける。
「あの日と言われても漠然とし過ぎてわからん。具体的な日付を言ってくれ」
「……うふふ、そうね。私が悪かったわ」
正面を見据えたままのラバンの答えを受け、ラヘルはくすくすと声を漏らす。
「あの日——三年と六十三日前の雨の日、貴方は多くないお給金の中から糸を買ってきてくれた。私が故郷のお屋敷で編み物ばかりしていたのを覚えていてくれたのね。好きで始めたわけじゃない、両親からいろいろと渡された中の一つでしかなかったわ。たまたま手に取ったのがそれだっただけで、趣味なんて呼べるものでもないと思ってた。……故郷を離れて私自身すっかり忘れていたけど、手は覚えていた。紡ぐこと、編むこと、好きだったのかもしれないってそのとき初めて気付いたわ。それからもラバンの帰りを待つだけの毎日に変わりはなかったけれど、少しだけ生きている心地がした。細い糸が集まって紐に、紐が編まれて形になっていくのを見るのが楽しかった。もう少し進めようかしらってところで手を止めて、それで眠る前に明日はこうしようって思うと、次の日が来るのが楽しみになった。……何年か経って、ラバンが頑張ってくれたおかげで向こう側に移り住むことができて、今は不自由なく暮らしていけてる。それだけでも十分過ぎるほど幸せだった。そこへ——」
手を伸ばしたラヘルは、エデンの頬に触れて言う。
「——貴方たちが現れたの。ラバンが貴方たち二人を連れてきて、一緒に暮らして……笑って——泣いて……本当に本当に楽しい毎日。誰かをうらやましいなんて思わなくなった。……だって、私は世界中の誰よりも幸せだったから」
口元を引き結び、湧き上がる思いをこらえるかのように続ける。
「……だから、もしも——もしも許されるのなら、もう一度四人で——」
不意に声を詰まらせたかと思うと、ラヘルは緊張の糸を切らしたかのようにしゃがみ込んでしまう。
途切れ途切れのおえつを漏らし、肩を打ち震わせて泣き崩れるラヘルに寄り添うようにしてエデンも腰を落とす。
同じく膝を突いたラバンは、右手でラヘルの肩を抱き、左手でもってエデンの腕を抱き寄せた。
二人まとめて抱き込むラバンの腕の力強さを感じながら、エデンはしばし静かに震えるラヘルの背をさすり続けた。
ラヘルが落ち着きを取り戻した頃合いを見計らい、ラバンは彼女を背に負って歩き出す。
体力の消耗は相当だったと見え、帰宅ののちラバンによって寝台に横たえられたラヘルはすぐに眠りに落ちてしまった。
寝台の脇で彼女の様子を見守っていたラバンもまた、間もなくこくりこくりと舟をこぎ始める。
椅子に腰を下ろし、腕組みの姿勢を取ったまま寝入る彼の背を掛け布で覆うと、エデンは足音を忍ばせて寝室を後にした。
屋根裏部屋に続く梯子を見上げれば、ローカが戻っていやしまいかとかすかな期待が頭をよぎる。
一見喜怒哀楽が乏しく見えはするものの、時に言葉よりも何倍も雄弁な瞳をもって思いを語る彼女が、いつものように帰りを迎えてくれるのではないか。
はやる気持ちに背中を押されて梯子を上るが、淡い希望はいともたやすく打ち砕かれる。
屋根裏部屋の様相は、大慌てで引っかき回した一昨日のままだ。
そこにローカの姿はなく、彼女の分の荷物も残されたままだった。
「あ——」
少女の寝ていた枕元辺りに認めたのは、ラヘルが彼女のために編んだ桜草の花冠だ。
いつかの四人での遠出以降、ローカがずっと大切にしていたことを思い出す。
だがよく見れば、白かった花弁は項垂れるようにしおれ、一部は茶色く枯れかけてしまっていた。
身を屈めて手に取ろうとしたところ、水気を失った花弁はかさりと乾いた音を立てて崩れ落ちる。
それが根を離れた草花に訪れる当然の結末であることはわかっていたが、先ほどまで白花だったかけらが指の合間からこぼれ落ちていく様を、エデンはただぼうぜんと見下ろしていた。
失われたものを思い、失ってしまったことを嘆き、泣き出してしまいたい気持ちもあった。
寂しさや悔しさに任せて涙を流せば、いくらか気分も楽になるかもしれない。
だがそれをしない、それができない理由がある。
階下の二人にこれ以上心労を掛けたくないのもあるが、何より泣いてみたところで彼女が帰ってきはしないことに気付いているからだ。
いつかローカの口にした「導く」の言葉が、あの場限りのものだったとはどうしても思えない。
もしも彼女が姿を消してしまったことが偶然ではないのであれば、失踪自体に意味があるのではないか。
ならば今すべきは、泣くことなどではない。
エデンは心の内で渦巻く漠然とした思いと願いが、少しずつ、だが着実に形を成していくのを感じていた。




