第百七十九話 先 生 (せんじょう)
「これはこれは、エデン君。——目が覚めたんですね、よかった」
「うん、先生のおかげだよ。ありがとう」
感謝を伝えたところで認めたのは、先生の背中に負われたシオンの姿だ。
眠っているのだろう、目を閉じた彼女は先生に身体を預けて小さな寝息を立てていた。
「なんともはや、少々張り切り過ぎましてね。絶対にローカ君を見つけるんだと言い張って聞かないので困りましたよ」
背に負った少女を示すように身体をひねった先生は、あきれとも感心ともつかない声音で漏らし、憂慮をもってシオンの顔をのぞき込んでいたエデンを安心させるような口ぶりで言う。
「ご心配には及びません。少し休めばすぐに元気になります」
「シオン……」
全く異質でありながら、それでもローカの有するそれに限りなく近いことを感じさせるシオンの力。
屋上での力の行使により、彼女が急激に疲弊していく様子を目の当たりにした。
河辺で異種にのみ込まれそうになった際も、平凡ではない弓の腕をもって窮地を救ってくれたのは彼女だ。
無理を押して助けに来てくれたのだと思うと、ただただ頭が下がるばかりだ。
加えてマフタや先生が言うように、今の今までローカを捜し続けてくれていたのだとしたら、気を失うまで力を使い続けてくれていたのだとしたら、どれほど大きな負担を強いていたことになるのだろう。
「ごめん、シオン。……自分がふがいないから」
じくじたる思いに下唇を噛み、静かに寝息を立てる彼女に向かって深謝の意を示す。
続けて再び先生の顔を見上げ、にわかに溢れ出してくる強い自責を噛み締めながら謝罪の言葉を告げる。
「……先生もごめん。自分のわがままのせいで危ない目に遭わせて。自分がもっと強かったら、頭が良かったら、きっとこんなことにはならなかった。他にできたこともあっただろうし、それより前に……ローカの気持ちにも気付けてあげられたかもしれないんだ。だから、全部自分が——」
「エデン君。ご自分を責めても問題は解決しません。未来に生かすための内省や自戒であれば大いに結構ですが、それ以上の自卑的な振る舞いは無用ですよ」
慙愧に堪えず深く肩を落とすエデンに向け、先生は優しく頬を緩めてみせる。
「子供は大人に面倒を掛けながら育っていく生き物です。……いいえ、子供も大人も変わりません。生を受けた瞬間から、誰かの手を借りなくては満足に生きることさえままならない脆く弱い命——それが人です。私たちも誰かの手を煩わせ、多大なる面倒や迷惑を掛けてどうなりこうなり大人になることができたのです」
いったん言葉を切った先生は、エデンの後方に向かって問い掛ける。
「どうでしょう、違いますか?」
先生の視線を追うように振り返って認めるのは、知らぬ間に背中に立っていたラヘルとラバンの姿だ。
「ええ」
「うむ」
二人は感じ入るように答え、横目で互いに視線を送り合う。
「親だから、子だから。そうではありません。先を生きる者には後に生まれた者に道を示す義務があります。もちろん私たちの生きてきた時代の正解が、子供たちの生きていく時代の正解であるとも限りません。正解は常に時代の流れや歴史とともに移り変わっていくものですから。水面に浮かぶ泡沫のような世の中で、長く生きただけの大人が教えられることなどたかが知れています」
先生は背に負ったシオンを子をあやしでもするかのように優しく揺らしながら語り続ける。
「そんな泡のひと粒である私にできることと言えば、己の学びを、体験を、失敗を、後悔を——そういった諸々を伝えることぐらいです。たとえ嫌な顔をされたとしても、うんざりされたとしても、私には語り続けることしかできません。時代とともに変わる正しさは教えられなくとも、古来より連綿と受け継がれてきた思想や哲学、数式や語法が内に秘めた正しさが子供たちを導いてくれると信じているからです。学びを通じて養われた見る力と聞く力は、発見と感動に満ちた世界との関わり方となるでしょう。無慈悲な世界との戦い方にもなり得るかもしれません。そして何よりも、目の前に広がる長く険しい道を歩んでいくための御杖であってほしいと願うのです。ですからエデン君、貴方も掛けられる間は存分に迷惑を掛けてください。私もお二人もほんの少しだけ先を生きる大人として、必ず貴方のことを守ります」
「……うん」
胸に刻むように、静かにうなずきを返す。
寄り添うラヘルを背に感じつつ後ろを振り返れば、腕組みとともに深々とうなずくラバンの姿がそこにあった。
「——ほら、皆さん。こうしてエデン君も目覚めたことですし、今日のところはお帰りなさい」
言い含めるような口ぶりで告げて先生が見下ろすのは、じっと見上げる五人の子供たちだ。
「私の戻りが遅くなるようなら早く帰りなさいとあれほど伝えてあったのに、本当に困った子たちです。——昨日もエデン君、貴方が目を覚ますまで待つと言い張って聞かなかったのですよ。一体全体誰に似たものやら」
「自分を……?」
「ええ。どうしても貴方に恩返しがしたいと言って譲らなかったので、今日は朝からこの子たちと一緒でした。昼過ぎまで手分けしてローカ君を捜し、後は私とシオンに任せて帰るように伝えたのですが……まさか本当に貴方が起きるのを待っているとは思いもしませんでした」
「……そうだったんだ。——君たちも」
先生から知らされた予想外の事実に、エデンは驚きを隠せなかった。
どこか面映ゆいような気持ちを抱えて子供たちの顔を眺めれば、五人それぞれ異なる表情を浮かべている。
居心地悪そうに目を背けるムシカ、舌打ちをして背を向けるマルト、気恥ずかしそうに笑うバダル。
照れたように顔をうつむけるサフリの隣では、プリンが不思議そうな顔で姉を見上げていた。
「エデン君。皆が貴方の力になりたいと願っているのです。私やシオン、この子たちだけではありません。ラヘル君もラバン君も、マフタ君もホカホカ君もです。——貴方と出会って、貴方と暮らして、貴方を知った者皆、何を措いても一臂の力を仮さんと寄り集うのです」
言って背中のシオンを一顧した先生は、身を屈めて五人ひとりひとりの頭をなでる。
黙ってされるがままに、煩わしげに手を払いのけ、照れくさそうに微笑み、子供たちは五者五様の反応を見せたのち、顔を見合わせ合って帰途を歩み始めた。




