第十七話 名 前 (なまえ)
用意してもらった食事を取り終え、空になった二人分の食器を洗い場へと運ぶ。
「その辺に置いといて」と給仕は言ったが、残しておくのも気になるのでそのまま洗い物まで済ませてしまう。
手を拭いてアシュヴァルの待つ卓に戻ろうとしたところ、作業の手を止めた給仕が無言で自身の顔を見詰めていること気付く。
「な、何かな?」
鼻先が触れんばかりの距離まで顔を寄せると、彼女は逆に聞き返してくる。
「あんたさ、そろそろ名前決めたら? いつまでも名無しじゃ不便でしょ?」
「な、名前——」
彼女の言うことはもっともだった。
この鉱山にやって来てからすでに二月余りが経っている。
いつか思い出すだろうと考えて先延ばしにし続けた結果、名を持たないまま今日を迎えていた。
彼女は不便と言ったが、部屋と鉱山とこの酒場を行き来している限り取り立てて不都合を感じたことはない。
アシュヴァルと二人で暮らす中でも「おい」「なあ」「あのさ」と彼が口を開けば、その相手はいつだって自分だ。
彼も名無しに慣れてくれており、急ぐ必要もないと言ってくれている。
鉱山においても自身という存在は一抗夫以外の何者でもなく、仕事の上で大きな差し障りが出たこともなかった。
「——もう少し、後でいいかな」
「はいはい、そうですか」
どっち付かずの曖昧な答えを返すと、給仕はからかうように舌を出して開店の準備に戻ってしまう。
必要に差し迫られたならば、彼女の言うように当面の呼称を付けることに異存はない。
だが今の少年には、自身が名乗るべき名前など考えもつかなかった。
以前に一度、アシュヴァルにその名の由来を尋ねたことがある。
「偉い神さんの名前をもらったとか、そんなんだよ」
「神さん……?」
「ああ。俺たちの名前はだいたい神さんからの借りもんだ。……それがどうした?」
どことなく気乗りしない口ぶりに、触れてはならない話題なのかもしれないと考える。
名前を考えてほしいと頼もうとしていたところだったが、種の名も知らない自身に彪人の神の加護を受ける資格はないように思え、続く言葉をのみ込んだのだった。
卓に戻ったのちは、箒を手に店内の掃除を始めた給仕を眺め、続けて夜の仕込み作業に入っている主人に視線を向ける。
アシュヴァルと共に過ごすうち、彼がなぜ他の店でなくこの酒場を選ぶのかがわかってきたような気がする。
酒場の主人も給仕も獣人は獣人だが、町や鉱山で見掛ける人々の中でも比較的アシュヴァルと近い姿形の持ち主だった。
何から何までまったく同じというわけではないが、扁桃型の目や漏斗状の耳、鋭さを感じさせる顔つきなどは彼とよく似ている。
アシュヴァルが獣人であり彪人であるように、獣人、嘴人、鱗人という種の中にもさらに細かな分類があるという事実を知ったのはつい最近のことだ。
アシュヴァルがこの店をひいきにする理由も、きっとそのあたりにあるのだろう。
「——おし、続きやっか!」
大きく伸びをしながら言うと、アシュヴァルは両手で卓を打って立ち上がった。
主人から修理の礼にとその日の夕食を持たせてもらい、さらに日当代わりに三日分の食事を無償で提供してもらえる運びとなる。
思わぬ見返りに、少年とアシュヴァルは手を打ち合わせて喜び合った。
◇
「これで全部——っと」
「結構たまってきたじゃねえか」
最後の一枚を積み上げながら呟くと、寝台に腰掛けたアシュヴァルは感心したように言った。
食台の上には、数十枚ごとに分けて二百枚ほどの銅貨が積み上げられている。
それを前にして発せられた言葉がうそ偽りのない本心であることが、優しげな口ぶりからも伝わってくる。
「お前、頑張ってるもんな。正直言うとよ、こんなに続くなんて思ってもいなかったぜ。意地っ張りの頑固者もここまでくると才能だよ」
「そ、そうかな……」
「そうだよ、立派なもんだ」
「……うん、ありがとう」
気恥ずかしさに顔をうつむかせながら礼を言い、目の前に積み上がった硬貨の山に視線を戻す。
鉱山で働いて得た日当の半分は家賃を含めた生活費としてアシュヴァルに渡しているため、それが二月余りの労働で手にした持ち分の全てだった。
仕事を始めた当初は人並みに仕事をこなすことができず、満足に日当をもらえない日も多かった。
だが、ここのところは少しずつ手応えを感じつつある。
アシュヴァルの言った通り、意地と頑固さだけで仕事を続けてきた結果なのかもしれない。
今でも日当の額は他の抗夫たちよりも幾分か少ないが、重ねてきた一歩が結んだ大きな成果だ。
積み上げられた山を崩し、かき集めた二百枚の銅貨を紐のついた巾着袋に戻す。
「そろそろ決まったか? そいつの使い道」
「使い道——かあ」
問いを受け、頭をひねる。
ためた日当の使途に関しては、今までも何度か話し合ったことがあった。
名前の件と同じく答えが出ないまま話は打ち切りになっていたが、決して何も考えていなかったわけではない。
必要になったときのために残しておくという選択肢もある中で、前回話し合った後から温めていた願いを思い切って口にしてみることにした。
「い、いつかアシュヴァルの故郷に行ってみたいんだけど……だ、駄目かな……?」
「は——」
少年の口にした希望がよほど意外だったのか、アシュヴァルは今までにない動揺を見せる。
「——はあ!? な、何言ってんだよ、お前! お、俺の故郷って……はああああっ!?」
「ご、ごめん!! 駄目ならいいんだ!! 無理にってわけじゃなくて……」
いつにない激しい周章ぶりは、尋ねた側が逆に戸惑ってしまうほどだった。
顔の前で大きく両手を振り、自身の発言を取り消そうと躍起になる。
アシュヴァルはそんな少年から視線をそらすと、乱れた感情を落ち着かせでもするように大きく深呼吸をした。
「……いや、そういうんじゃねえよ。いつかは一回帰らねえとなんねえって思ってたんだ。……そうだな。そんときはお前も一緒に——」
首筋をさすりながら自分自身に言い聞かせるように呟くと、アシュヴァルは背を向ける形で寝台に横になってしまう。
「うん、いつか。——楽しみにしてる」
答えて自身も寝台の上に横たわると、いつも通りにアシュヴァルと背中合わせの形で目を閉じる。
極めて寝付きの良いアシュヴァルだが、その日は普段よりもいくらか眠りに就くのが遅く感じられた。