第百七十七話 残 影 (ざんえい)
「……ふふふ、違うわ。そこは——こうよ」
建物の裏手から聞こえてくるのは、温かみに満ちたラヘルの笑い声だ。
「——そう……それで次は——」
食後に昼下がり、あるいは床に就く前の憩いのひととき、空き時間を見ては紐細工を教えるラヘルと、真剣に教えを乞うローカの姿がいつでもそこにあった。
幾度となく耳にしてきたやり取りだと、変わらない日常だと何げなく受け止めていた光景が、今になってこれほど切望するものになるとは考えもしていなかった。
ローカが戻ってきたのだと思うと、居ても立ってもいられない。
空回る足を無理やり回して建物の角を曲がり、以前に先生が授業を行っていた裏庭へと転げ出る。
「ローカっ!?」
周囲を見回しながら少女の名を呼ぶ。
今回がいつもより少しばかり長い不在であったとしても、戻ってきてくれたならそれだけでいい。
行動を縛るつもりは全くないが、今度からは出掛ける前にひと言だけ教えてほしい。
会えたなら伝えたいことをぐるぐると頭の中で巡らせながら、落ち着きなく辺りを眺め回す。
声の主であるラヘルの姿は確かにあった。
日の当たらない壁際に置かれた木の椅子に腰掛け、膝の上に乗せた紐を編む彼女がそこにいる。
だがラヘルの教えを受けるのは捜し求めていた少女ではなく、細く伸びた鼻と丸みのある耳を持った鼡人の少女だった。
ゆっくりと椅子から立ち上がったラヘルは手にしていた道具を椅子の上に置くと、暮れゆく夕日の下でぼうぜんと立ち尽くすエデンの元に真っすぐ歩み寄る。
「エデン、目が覚めたのね。——よかった」
迎え入れるかのようにラヘルは両手を広げる。
若干の躊躇を覚えつつも自らその胸に頬を寄せると、彼女は包み込むようにエデンの身体を抱き締めた。
「ラヘル……」
深い安堵の息遣いが身体越しに伝わってくる。
「貴方が溺れて気を失ったってラバンから聞いたときは驚いたわ。なかなか目を覚まさなくて気が気じゃなかったし、もしもこのまま眠ったままだったらって考えたらどうしていいかわからなくなくて。……だからこうしてまたお話ができて本当にうれしいわ」
「……心配させてごめん」
腕の中で謝罪するエデンを、ラヘルは一層強く抱き寄せる。
「——エデン、優しい子。この子たちから聞いたわ。とっても頑張ったのね。いい子——いい子なのに……どうしてこんなに苦しいのかしら。……ううん、わかってるの。本当は貴方もローカも危ない場所になんてやりたくない。ずっと私の目の届くところにいてほしい、できることなら閉じ込めてしまいたい」
「ラヘル……?」
「……それがどれだけひどいことか私が一番よく知っているはずなのに、気付くと同じことを繰り返してしまいそうになるの。流れる血がそうさせているのかと思うと怖くなるわ。……故郷から遠く離れても、血の呪いからは逃げられないのかしらって」
思いを吐露するラヘルの声は上ずり、身体はにわかに震え始める。
エデンは自らを抱く腕を取り、表情を失った彼女の顔を見上げて口を開く。
「違うよ、ラヘル。血は痛みを教えてくれるし、たくさん流せば命を失う大切なものだけど、それでも身体の中を流れている液体なだけなんだ。もしラヘルの言う呪いが本当にあるとしたら、それが宿っているのは血なんかじゃないと思う。きっと——」
ラヘルの腕を取りながら一歩後方に退いたエデンが見下ろすのは、先ほどから不安げな目で見上げる二人の鼡人たちだ。
紐細工を習っていた姉妹の姉であるサフリと、その様子を興味深げにのぞき込んでいた少年バダルだ。
「助けてくれてありがとうございます」
深々と頭を下げるサフリに対し、左右に首を振って答える。
「ううん、お礼は受け取れないよ。自分もみんなに助けてもらっただけだから」
「それでも……それでも、ありがとうございます。わたしも妹も、ありがとうって思ってますから」
今日何度目かになる感謝への辞退は、謙遜でもなんでもなく率直な思いだった。
マフタの言葉を借りるなら、誰かを助けようと思う気持ちから生まれた行動が、誰かに助けたいと思わせるきっかけとなっただけなのかもしれない。
姉妹を襲わんとする異種に立ち向かう三人の少年たちを目にしたとき、一歩踏み出す気構えが生まれたのは確かだからだ。
「立派だったよ」
「う、うん……」
恐々といった様子で見上げるバダルに称賛の言葉を送る。
迫る異種を前にしての三人の勇気ある振る舞いを思い返せば、かつての自分にそれができたかどうかを自問したくなる。
気恥ずかしそうにサフリの陰に隠れてしまうバダルだったが、表情には誇らしげな色が見え隠れしていた。
「えっと、ラヘルさん、また教えてくれますか……?」
「ぼ、僕も教えてほしくて……!!」
遠慮がちではあったが真剣な目をして頼み入るようにサフリが言うと、バダルもまた慌てた様子で追随する。
裾を払ってその場に膝を突いたラヘルは、愁いを帯びた笑みを浮かべて二人の頭を優しくなでる。
無言をもって確答を避けるラヘルから何かしらを感じ取ったのだろうか、サフリは彼女の腕にひしと取りすがってなかなか離れようとしなかった。
生きるために町を出ると決したラヘル、身を冒すは呪いと彼女は語ったが、おそらくそれは呪いではなく病いと呼ぶべきものなのではないだろうか。
病いは肉体と精神に深く食い込み、生きるための機能を奪っていくものだ。
ならば呪いはどこに宿るのかと考えれば、きっとそれは人と人との間に根を張っているのではないかと思う。
いつの間にか人の間に不可視の根を張り巡らせ、考えることや学ぼうとする気持ちを失わせるもの。
「エデン」
名を呼ばれ、はたと我に返る。
目の前には先ほどより幾分か落ち着いた様子のラヘルの姿があり、その後方ではサフリとバダルの二人が相談を交わしながら紐細工を再開している。
「勇敢なだけじゃなくて、とっても利発なのね。初めて会った頃から頑張り屋だったけど、私が知らない間にどんどん大きくなっていくわ。少し寂しいけれど、成長を喜ばないといけないわね」
「そ、そんなことないよ……! さっきのも受け売りだし、ひとりじゃ何もできなくて——」
「それが貴方の成長の源なのね。伸ばした手を、誰かが握り返してくれる。こんな素敵なことはないわ」
「……うん。それは——きっとそう」
激動の一日を思い返すエデンの頭をサフリたちにしたのと同じようになでてみせたのち、ラヘルはわずかに声の調子を落として続けた。
「そろそろ帰らないと。書き置きは残してきたけれど、戻ってきたときに誰もいなかったら……あの子が寂しがるわ。私とラバンはもう戻るけど、エデン、貴方はどうする? まだ調子が優れないみたいだし、もうしばらく先生のところでお世話になるほうが安心かしら……?」
「ううん、自分も一緒に帰るよ。一度帰ってローカを捜しに——」
そこまで話したところで、いったん言葉をのみ込んで尋ね返す。
「——ラバンも来てくれてるんだ」
「ええ、来てるわ。さっきまで町に出ていたのだけど、少し前に戻ってきてから——あれ」
ラヘルの視線の先をエデンも眺めやる。
そこには木の枝か何かを手にし、大地に何かを刻んでいるラバンの姿があった。
傍らで腰を屈めているのは鼡人の少年と少女、マルトとプリンだろうか。
「ラバン、何をしてるの……?」
「知らない」
尋ねるエデンに対し、腰に両の手を添えたラヘルがすねたような口ぶりで応じる。
「……私がどれだけお願いしても『もうやめた』の一点張りだったのに、まったく勝手なんだから」
子供のように頬を膨らませる彼女だったが、木の枝を握るラバンを見詰める瞳は、この上なく柔らかな慈愛の色を映していた。




