第百七十六話 忠 恕 (ちゅうじょ)
「……マフタ、ごめん。ローカがそこにいるかもって考えたら、その、じっとしていられなくて」
感謝の次は、謝罪の意を込めて深く頭を下げる。
「それから、どうしてもなくしたくなかったんだ。——あれも大切なものだから」
言ってちらりと目をやるのは、壁に立て掛けられたひと振りの剣だ。
皆が駆け付けてくれなければ、先生が河底から拾い上げてくれなければ、ラジャンから預かった剣も行方知れずになっていたことだろう。
マフタは申し開きを述べるエデンをあきれ顔で見上げ、変わらず穏やかな笑みをたたえるホカホカと顔を見合わせる。
致し方なしとばかりに肩をすくめたマフタは、気持ちを切り替えるかのように関心の行き先を剣へと移した。
「まあ大切だろうさ。装飾だけ見ても相当な値打ちもんだし、どうやら得物としても一級品みたいだしな。なくしたくないってのもわからんでもないな」
値踏みするように剣を見る鋭い視線は、まごうことなき商人の目だ。
「……うん、そう思う。自分にはもったいないって。でも少し違って、大切なのはいいものだからってだけじゃないんだ。それはいつか返しにいかないといけない預かりもので、だからそのときまで大切にしないといけなくて……」
抜き差しならない事情とはいえ、一度手放そうとした無責任を心から恥じる。
あのとき本当に剣を金銭と引き換えていたら、異種との遭遇時に剣を帯びていなかったら、果たしてどんな結末を迎えていただろう。
不意に襲う物恐ろしさから逃げるように、左右に小さく顔を振るわせる。
「そ、そうだ! 大切なもの……! ムシカ、君は二人に——」
思い立ったように掌を打ち合わせ、寝台の脇に立つムシカを見やる。
「……うん」
よく見なければ見落としてしまいそうな小さなうなずきとともに、ムシカは声か細く答える。
「ちゃんと謝れたんだ。……そっか。よかった」
先ほどまでのマフタとの話しぶりを見れば、ホカホカも含めた三者の間で何かしらのやり取りがあったことは想像に難くない。
ひとつ肩の荷が下りたような気がし、安堵に小さく息をついた。
「そうなんだー!! ムシカがねー、謝ってくれたんだよー。悪かったってー、ごめんなさいってー。おいらなんだかうれしくてー、いっぱい泣いちゃったー」
「こいつが許すって言ってんだ。俺から言うべきことは何もないさ。それにだ——」
とても盗まれた当事者とは思えない喜ばしげな笑顔のホカホカを横目に眺めつつ、マフタはからかうようにムシカの脇腹をつつく。
「——こいつさ、約束したんだぜ。もう絶対に悪さはしないって。それと頑張って勉強して夢をかなえるってさ」
「夢?」
「……いいだろ、夢や目標のひとつくらいあっても」
復唱するエデンに対し、ムシカは照れくさそうに視線を背ける。
「少し話してわかったんだけど、こいつ結構賢いんだよ。だから案外本当にかなえちまったりしてさ。——な、ムシカ!! いつかお前がこの町の——」
翼を組んで感心してみせるように言うマフタだったが、出し抜けに伸びたムシカの手に嘴を握られ、言葉を封じられてしまう。
「——んー! ——んんー!!」
「ひ、秘密だって約束したろっ!? 言わないでよっ!!」
「——んんんー!!」
「絶対に言うなって!! は、恥ずかしいだろ!? お、おれなんかが……そんな——」
むんずと握り締められたことで、マフタは細く長い嘴の先端に位置する鼻孔をふさがれてしまう。
なんとか口止めしようとするムシカと息ができずに激しく抵抗するマフタ、暴れる二人を広く大きな翼でまとめて包み、優しくたしなめるような口ぶりでホカホカが言う。
「ほらー、二人ともー。静かにしないと駄目だよー。エデンは今起きたとこなんだからー。——ねー?」
「……ご、ごめん」
「——んんー!! っはあ……!! ……し、死ぬかと思った……」
ムシカが嘴を握っていた手を離すと、解き放たれたマフタは大きく口を開けて息を吸い込んだ。
再び顔を見合わせて「お前なあ!!」「だってさ!!」と言い合い始める両者の背をホカホカが抱き寄せる。
翼に抱き込まれておとなしくなった二人を見て取るや、ホカホカは満足そうに破顔してみせた。
「はいー、二人ともー、よくできましたー!!」
直後のこと、突如として部屋中に雷鳴を思わせる轟音が響き渡る。
驚きに周囲を見回すエデンだったが、マフタとムシカからは特に驚いたような反応は見られない。
ホカホカに至っては、なぜか喜ばしげな面持ちで腹部をさすっていた。
「おいらー、安心したらなんだかお腹すいてきちゃったー」
「安心でも不安でもいつでもだろ、お前は」
あきれ気味に呟くマフタだったが、気を取り直すかのように肩をすくめる。
「わかったわかった。そうだな、それじゃあ飯でも食いに——」
「……んー、でもー」
マフタが言い終える前に、ホカホカは「ふわあ」と腹の音に負けない大あくびをひとつ放つ。
「今はー、おやすみー……」
続けて目をこすりながら呟くと、寝台にもたれ掛かるようにして寝入ってしまった。
「はあ。まったく仕方ない奴だな。——ま、今日ぐらいは許してやるか」
たちまち規則正しい寝息を立て始める彼を前に、マフタはやれやれとばかりに嘆息する。
「ありがとう、ホカホカ」
足元で眠るホカホカの頭にそっと触れてもう一度礼を言い、起こしてしまわないよう注意して身をひねる。
おそらくは先生のものであろう丈長の衣服を引きずるようにして、エデンは音を立てないよう気を付けて寝台から足を下ろした。
「もう動いて平気なのか?」
「うん、平気。……それにいつまでも寝てられないから」
心配そうに見上げるマフタに答えを返し、寝台の縁に手を添えて立ち上がる。
自覚はないが丸一日眠り込んでいたというだけあって、固くこわばった身体は思うように動いてはくれなかった。
マフタは先ほど先生とシオンが捜しに出てくれていると言っていたが、まだ帰ってきていないであろうことを考えると、ローカは見つかっていないのだろう。
先生とシオンにローカを捜さなければならない義務などなく、その役目は誰でもない己の務めだ。
丸一日強の時間を棒に振ってしまっている以上、休んでいる暇など一秒たりともありはしない。
「なあ、あの——」
不意の呼び掛けに下方を見下ろせば、ムシカが恐々といった様子で見上げている。
「——おれも……エデン、でいいか?」
「うん、ムシカ」
首を縦に振って肯定の意を示し、視線をそらしてしまう彼が再び口を開くのを待つ。
しばしもごもごと口ごもっていたムシカだったが、やがて意を決したかのように切り出した。
「あのさ、おれ、無駄にしないよ。この人たちが——ホカホカとマフタがおれを許してくれたこと。……あれがさ、あのちっぽけなかけらがどれだけ大切なものなのか知らなくて、勝手におれのものにしようとして。だから、もう同じことしないって約束する。絶対に絶対にしない。あいつらにも——マルトたちにも絶対させない。それで今よりもっとたくさん頑張って……おれもエデンみたいになりたい」
「自分、みたいに……?」
ムシカの口から飛び出した思いがけない表明に当惑を隠せない。
目を丸くして立ち尽くすエデンを見上げ、ムシカは至って真剣な様子で続けた。
「うん。エデンみたいに弱くても誰かのために戦うことのできる人になりたいんだ」
「弱く——ても……」
「ひひひ、ははははっ!! ムシカ、なかなか言うじゃないか!! ——おい、エデン!! こいつは一本取られたな!!」
マフタは力なく呟くエデンの足をしきりにつつきながら声を上げて笑う。
ムシカは自らの発言が不用意だったと思い至ったのか、ひどく取り乱した様子で謝罪を口にした。
「え、あ……! あの——ご、ごめん……」
「……ううん、それはそうだから気にしないで」
ゆっくりと左右に首を振り、ムシカの謝罪を受け入れる。
強い者たちの後ろ姿に憧れるだけでは、分不相応に立派な剣を手にしただけでは、一足飛びに強くなれるわけなどないことは百も承知だ。
だとしても振り絞った勇気が誰かに力を与えられたのだとしたら、それはこの上なく喜ばしいことだ。
身を屈めて視線を合わせ、自分よりも小さな肩に手を添える。
「……今はまだ弱いけど、ずっと弱いままじゃいないって約束する。だからムシカも一緒に」
「うん、絶対」
力強くうなずくムシカに笑顔で応じたのち、膝を突いたままマフタに向き直る。
「マフタ、自分もローカを捜しにいくよ」
「ああ。そう言うと思ってたよ。いったん火が付いちまったお前に何言ったって無駄だと思うから止めないけど、あんまり無理するなよ。——こいつが心配するからさ」
どこか皮肉げに片目を眇めて言うと、マフタは寝台に崩れ込むようにして寝息を立てるホカホカを翼指をもって指し示した。
寝台の上から引きずり下ろした掛け布を眠るホカホカの背に掛け直すマフタに背中を向け、エデンはふらつく足で戸口に向かって歩み出す。
ぎしりときしむ扉を抜け先に広がっていたのは想像していた通りの光景、無数の書物が所構わず山と積まれた先生の書斎だった。
「え……」
書物でふさがれた玄関ではなく勝手口の方向へ自然と足が進むのは、屋外から耳慣れた笑い声が聞こえたからだ。
胸が高鳴るに伴って歩みの早まる足に触れ、幾冊かの本がばたばたと山から崩れ落ちていたが、構うことなく家の外に飛び出した。




