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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第二章  自由市場(じゆういちば) 篇   第五節 「消えた少女と、少年の一番長い日」
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第百七十五話  浮 橋 (うきはし)

「——ローカっ!!」


 誰かの顔をのぞき込む気配に、エデンは少女の名を呼びながら勢いよく身を起こした。


「よかった……! ここに——ここにいたんだ……!!」


 止めどなく溢れてくる思いを噛み締めるように呟くと、見下ろす何者かに向かって両手を伸ばす。

 遠慮なしに力いっぱいに抱き寄せ、抵抗するそぶりを見せずされるがままの胸元に顔をうずめた。


「ここに——」


 頬に感じる柔らかく沈み込むような羽毛の肌触り、そして鼻孔をくすぐる香木や花の香にも似た馥郁たる芳香に、はたと首をかしげる。

 見上げる目に映った緑と黄の羽毛に包まれた顔は、ローカのものとは大きく掛け離れていた。


「……ごめんよー、ローカじゃなくてー」


 今にも泣き出しそうな表情を浮かべてうつむき気味に呟いたのは、少女とは似ても似つかぬまったくの別人だった。

 ぼうと見詰めるエデンの背を、大きく立派な翼が優しくなでる。


「ホカホカ……」


「ごめんねー、エデンー。おいらだよー、ごめんよー……」


 緑色の羽毛に身を包んだ嘴人の名を呼び、起き抜けで焦点の定まらない目をもって周囲の様子をうかがう。

 その段になってようやく、自身が寝台の上に寝かされていることに気付く。

 住み慣れたラバンとラヘルの家の屋根裏ではなかったが、寝台を囲む形で山と積み上げられた書物が十分過ぎるほどに所在を物語っていた。

 しかしながら前後の記憶が不確かなエデンは、直前の記憶をひとつずつ手繰り寄せるように思い返していく。


 ローカが姿を消したと知り、行方を追って家を飛び出した。

 準市民区にある先生の家を訪ね、シオンにもローカと同種の力が備わっていることを知る。

 ローカの残した軌跡を追っていたところで異種に遭遇し、無謀にも挑み掛かった結果として河へと引き込まれてしまったのだ。

 皆に助けられて河辺に引き上げてもらったところまでは覚えているが、それ以降が思い出せない。


「エデンねー、ずっと気を失ってたんだよー。ラバンさんがここまで運んでくれたんだけどー、丸一日眠りっ放しだったんだー。おいらすっごく心配したよー。でもー、目が覚めて本当に本当によかったー」


 胸に翼を添えて安堵のため息を漏らすとともに、ホカホカは込み上げるあくびを噛み殺すかのように嘴元を震わせる。

 その腰を下ろす椅子の隣に並んだもうひとつの椅子には水を張った桶が据えられ、縁には幾枚かの手拭いが行儀よく引き掛けられていた。


「ホカホカ、もしかしてずっと……?」


「ううんー、そんなのいいんだー。それよりもう怖くないー? よくない夢見てたみたいだったからー。エデンー、すごくすごくうなされてたんだよー」


「夢——」


 目元ににじむ涙を拭いながら言うホカホカの言葉を受け、直前まで見ていた夢の内容がよみがえっていく。

 目を見開き、身を硬くしてうつむくエデンの背を、慰撫するようなしぐさでホカホカがなでる。


「ほらー、エデンー。大丈夫だよー、大丈夫ー」


「……うん、ありがとう。ホカホカ」


 背に触れる柔らかな感触と優しい声音に、徐々に混乱が収まっていく感覚を覚える。

 落ち着きを取り戻すに従って湧き上がってくるのは、どうしても尋ねずにはいられないひとつの疑問だ。

 おおよそどんな答えが返ってくるのかもわかっていれば、今この場で聞くべきではないことも理解していた。

 

「それで、その……ローカは……」


 すがるような視線で見詰めて問うと、ホカホカはそれが己の責であるかのように思い詰めた表情で左右に首を振る。

 想像していた通りの反応を前にして肩を落とすエデンに答えを返したのは、うつむいてしまったホカホカではない別の人物だった。


「それなら大先生と弟子っ子が今も捜しに行ってるよ。昨日もあれからずっと、今日も朝から出ずっぱりだ」


 声の主は部屋の片隅に置かれた椅子に腰掛けるマフタだった。

 隣には膝と腹の間に一冊の本を挟んで石の床に腰を下ろしたムシカの姿もある。

 物言いたげな表情を浮かべるムシカの頭を翼でもって押し込むと、マフタは促すような口ぶりで言った。


「こいつがお前に伝えたいことがあるんだってさ。——ほら、言えよ。そのためにずっと起きるの待ってたんだろ?」


「う、うん……」


 マフタに急き立てられ、もごもごと言葉を詰まらせながら立ち上がる。

 ホカホカに背中を押されて寝台の傍らまで歩み寄ると、ムシカは今にも消え入りそうな声で言った。


「……あの、あれ、ありがとう。……みんなとおれのこと、助けてくれて」


 照れくさそうに視線をそらして礼を述べるムシカを前に、エデンは河中に引き込まれることになる直前の己の行動を思い返していた。

 身の程知らずにも異種に挑み掛かっただけでなく、奪われそうになった剣を取り返そうと躍起になっていた自分のことを。

 もしもシオンが、先生が、マフタとホカホカが、ラバンが、救いの手を差し伸べてくれなければ、いったいどうなっていたことだろう。

 異種にのみ込まれていたか、すりつぶされて大河にさらわれていたか、それとも溺れて命を落としていたか。


「……ううん、違うよ。助けようとしたけど、助けられたのは自分のほうだった。お礼を言われるようなことはできてない。それに……」


 結果的にムシカは助けられたかもしれないが、足を取られて逃げられなかった人々が異種に襲われるところをただ見ていることしかできなかった。

 仮に自分が彪人であったなら、アシュヴァルやラジャンのような強さを持ち合わせていたなら、手にした剣を使いこなせていたなら、彼らを助けることだってできたかもしれない。

 仮定でものを言っても仕方がないことはわかってはいるが、目の前で起きた惨事を傍観するしかできなかった己に強い無力感を覚える。


「まああれさ。こいつらのことを助けてやりたいって思ったのは紛れもない事実なんだろ? そんなお人よしのお前だから、俺たちも助けてやりたいってなるんだ。あんまり難しく考えるなよ」


 椅子から飛び降りながら言うと、マフタはホカホカを見上げて同意を求めるように問う。


「な?」


「うんー! おいらー、エデンの助けになれてうれしいよー。恩返しー、少しはできたかなー? えへへー」


「自分のほうこそ、本当にありがとう。……マフタ、ホカホカ。二人のおかげで生きてるよ」


 やれやれとばかりに翼を組んで嘆息するマフタと屈託のない笑顔を見せるホカホカ、二人の嘴人に対して順に頭を下げる。

 あのときホカホカが縄を投じてくれなければ、こうして再び言葉を交わすことはできなかっただろう。

 それ以前に、二人が事態に気付いてくれなければ、見つけてくれなければ、誰も知らないままに連れ去られていたかもしれないのだ。


「そうだ、どうしてわかったの……? その、自分が河の中にいたこと——」


「……は!? 河の中ってお前、ちょっと水浴びしてましたみたいな感じで言うなよ!!」


 エデンが問い終える前に、寝台に詰め寄ったマフタは大声で言い立てる。


「お前さあ、どうすればあんな状況になるんだよっ!! 異種と一緒に水泳大会開催中か!? 事情は一応ムシカから聞いたけどな、毎度毎度騒ぎに巻き込まれやがって!! 違う、自分から頭突っ込みやがって!!」


「ほらー、マフター、落ち着いてー。エデンが無事で安心したんだよねー。一番心配してたもんねー」


「そんなんじゃない!! 俺はただ無性に腹立たしいだけだよ!!」


「素直になるよー」


 寝台の縁に翼を乗せて跳びはねながら息巻くマフタを、普段通りの穏やかな口調でたしなめるホカホカの姿がそこにある。

 もはや見慣れた光景を前にしてエデンが覚えるのは、悪夢から解き放たれて日常へと帰ってきたという実感だった。


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