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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第二章  自由市場(じゆういちば) 篇   第五節 「消えた少女と、少年の一番長い日」
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第百七十四話  捧 呈 (ほうてい)


「——ここ、は……?」


 指先でつまむようにしてまぶたをこすり、いつになく重く感じられる身を起こす。

 深い眠りの余韻の残るおぼつかない目で辺りを見回すうち、不明瞭だった周囲の景色が徐々に色と形を成していく。


 どこかの建物の中の一室だった。

 飾り気のない部屋には、自身が横たわっていた寝台以外にも幾つか空の寝台が置かれている。

 掛け布をはね飛ばして寝台から足を下ろすと、ぎしりと床板がきしむ音がした。


 そこが高地に位置する彪人の里の、最も高台に構えられた里長ラジャンの屋敷の客間であることに気付く。


「おう、起きたな」


 聞き覚えのある声を耳にしてはたと振り向く。

 開け放たれた窓枠に腰を預ける人物を目にすれば、胸に熱いものが込み上げてくる。


「あ——」


「あ、なんだ?」


 万感胸に迫って声を詰まらせると、窓際の人物は繰り返すように言った。

 高ぶる感情を静めるように小刻みに頭を揺すり、今一度乱暴な手つきで目をこする。

 そして目の前の人物を見据え、幾度となく口にした名を呼んだ。


「——アシュヴァル」


「ん、どうしたよ?」


 白と黄の地に、幾条もの稲妻を思わせる黒縞くろしまが鮮烈な被毛。

 名を呼ばれたことがよほど慮外だったのか、若き彪人アシュヴァルはどこかいぶかしげな表情を浮かべてみせた。


「よ」

 

 勢いを付けて窓枠から飛び降り、寝台の傍らまで歩み寄る。


「なあ、大丈夫か? 熱でもあるんじゃねえの?」


 言ってアシュヴァルが手を伸ばす。

 覆い隠すように耳に触れる厚みのある掌の感触に、郷愁にも似た物懐かしさが胸の内に湧き上がってくる。

 側頭部にあてがわれた掌に軽く触れてひと呼吸置き、波立つ心を鎮めるように呟いた。


「……うん、大丈夫」


「それならいいけどよ」


 寝台の足元側に掛け直したアシュヴァルは、小さく嘆息したのち心底あきれ果てたと言わんばかりの表情で口を開いた。


「そりゃそうとさっきは驚いたぜ。何するかと思えば急に川ん中飛び込んじまってよ、いったいどうしちまったんだ?」


「川——」


 彼の口にした言葉を耳にし、はじかれたように顔を上げる。

 不意に脳裏をよぎった記憶を手繰り寄せようと必死に考えを巡らせるが、一向に端緒がつかめない。

 混濁する記憶に戸惑い両手で頭を抱えると、アシュヴァルは顔に浮かぶ気遣わしげな色をますます強くする。


「おい、本当に大丈夫か……?」


「……大丈夫」


 顔を上げ、心配そうに見下ろす彼に向かって無理やりの作り笑顔で応じる。

 ふと先ほどまでアシュヴァルが腰掛けていた窓の外に目を向ければ、まるで滝を覆したかのような大雨が降り注いでいる。

 目を閉じて耳をすませば、ごろごろと轟く遠雷の音が聞こえた気がした。


 瞑目したまま天を仰ぎ、今に至る記憶をたどっていく。

 経緯は定かではないが、水の中に飛び込んだところまでは覚えている。

 そこから水中で激しくかき回され、呼吸ができず溺れそうになり、何かにぶつかりそうになって——そして誰かに地上へと引き上げてもらったのだ。


「そ、そうだ!! みんなは無事……!?」


「みんな? みんなってのはどこのどいつのことだ?」


 突然の大声にわずかに驚いた様子をみせたのち、アシュヴァルはけげんそうに問う。


「みんなは……そう、自分を助けてくれたみんなで……」


「なんだ、それなら大丈夫だ」


 安心させるように言い、続けて親指で自らの顔を指し示す。


「俺が最初に飛び込んでよ、そんでシェサナンドとバグワントで引っ張り上げたんだ。お前が心配することねえよ」


「そ、そっか。……うん、ありがとう。二人にもお礼言わなくちゃ」


「いつでもいいだろうよ、そんなもん」


 どこか釈然としない感覚を残しつつも礼を言うと、アシュヴァルは軽く言い捨てるように応じる。


三莫迦さんばかもずいぶん心配してたぜ。特にヴァルンの奴なんか意味もねえのにあっちこっちうろうろしてさ、今もその辺うろついてんじゃねえか? 後でいいからよ、ついでに元気な顔見せてやってくれ。きっと喜ぶからよ」


 両手を掲げておどけてみせるアシュヴァルだが、続く言葉には若干の懐疑の色が見え隠れする。


「ところでお前さ、なんでいきなり川ん中飛び込んだりなんてしたんだよ。お前も風呂好きなのは知ってるけどよ、ちゃんと三日に一回は入ってるだろ。それともあれか、水の底になんかいいもんでも沈んでたか?」


「なんで——川の中に……」


「あー!! 悪かった悪かった!! 今は考えなくていいからよ、少し落ち着け!!」


 再度頭を抱えて考え込むうち、少しずつ忘れていた記憶がよみがえってくる。


「いいもの……大切なもの——」


 脳裏に一人の少女の姿が仄かに浮かび上がる。


「——そうだ……!! ローカ……ローカはどこ!?」


 声を張り上げ、記憶の中の少女の名を呼ぶ。

 だがその名を耳にした瞬間、見上げるアシュヴァルの顔が見る間に凍り付いていく。

 生気のない表情を浮かべた彼は、抑揚の感じられない平坦な口調で告げた。


「おい、お前……忘れちまったのか?」


「忘れ——って、何を……?」


 反問を受けた彼が返すのは、どこか歯切れの悪い生煮えの言葉だ。


「あれだ、あの子はもう——」


「もう……? もう——なんなの……?」


 身を乗り出すようにして問い返すが、視線の先にアシュヴァルがいない。

 ほんの直前まで眼前にあったはずの姿が、どういうわけかこつぜんと消え失せてしまっていた。


 変化はアシュヴァルの消失だけにとどまらなかった。

 四方の景色は先ほどまでの客間から、いつの間にかくさぐさの宝物や武具が雑然として散らかった謁見の間へと移り変わっている。

 見覚えのある女が真鍮の香炉に火を入れると、辺りに甘美な香りの絡んだ煙が漂い始め、周囲の景色をより鮮明に描き上げる。

 突然の変転に落ち着きを欠いて慌ただしく四顧する中、耳に飛び込んできたのは有無を言わさぬ威圧感に満ちた低音だった。


「小僧」


 声のするほうに視線を向ける。


「貴様も乃公おれに食われにきたのか」


「……ラ、ラジャン」


 見上げた先の高座にあるのは、脇息に身体を預けるようにして見下ろす里長ラジャンの姿だ。

 気だるげに首をかしげた彼は、脇息に乗せた腕と逆側の手でさも大儀そうに腹部をさする。


「自分——も……?」


 不意に覚える違和感に、その口にした言葉を繰り返す。

 そんな反応を面白がるかのように口元をにやりとゆがませたかと思うと、ラジャンは鈍い破裂音とともに何かを吐き出した。


 口から飛び出した小さなかけらが、軽い音を立てて足元へと転がってくる。

 細く小さな棒状をしたそれはわずかに黄みを帯びた白色をして、半透明と赤色の塊が表面に付着する。


「あ——」


 突然襲い来る脱力感に耐え切れず、へたり込むように膝を折る。

 足元に転がる白いかけらを放心したように見下ろしていると、ラジャンはいかにも愉快げな視線をもって後方に控える女たちに合図を送った。

 震える手で白いかけらに触れんとしたそのとき、謁見の間の奥から何かを手にした女が戻ってくる。

 両手で恭しく捧げ持たれているのは、丸い輪郭をした何かを乗せた銀製の盆だった。

 女たちがすり足で進み出るに従って、盆の上に乗せられたものの形状があらわになっていく。

 恐る恐る視線を持ち上げ、盆の上に据えられた何かを仰ぎ見る。

 鋭利な刃物か何かで切断した切り口を下に盆に据えられたそれは、最悪の想定の通りに人の頭部だった。

 首の断面から溢れ出た血が盆上に赤色の血だまりを作り、収まり切らなくなった分が縁からこぼれ落ちている。

 血の気を失ってますます白みを増した白皙はくせきの肌とくすんだ金色の毛、そして毛の間からのぞく銀色の目は見まがいようもない。

 盆に据えられた頭部は、よく知る少女のものだった。


「そ、そんな……」


 おぼつかない足つきで立ち上がり、左右によろけながら盆を捧げ持つ女の元へと歩みを進める。

 うつろなまなざしをたたえた少女の頭部に向かって両手を差し伸ばそうとした瞬間、語気強く放たれる声を背中に聞いた。


「おい!! 何やってんだっ!!」


 静まり返った謁見の間に荒々しい足音を響かせて歩み寄るのは、先ほど姿を消してしまったアシュヴァルだった。


「ローカ……! こ、こんなのって——」


「莫迦野郎!! よせ!!」


 執拗に少女の頭部に手を伸ばそうとするところを引き戻され、左右の肩をつかまれて強引に振り向かされる。


「エデン!! ——落ち着け!! 目を覚ませ!!」


 手の甲で頬を打たれたことで、ぴたりと動きを止める。

 当然手加減はしてくれているのだろうが、打たれた箇所を中心にして広がっていく痛みは相当なものだった。

 じんじんと脈打つ頬を手で押さえながら、歯を食いしばるようにして見下ろすアシュヴァルの顔を見詰める。

 

「今、なんて……」


 アシュヴァルは()()を知らないはずだ。


 改めて周囲を見回せば高座にあったはずのラジャンの姿はなく、眼前のアシュヴァルも再び消え失せてしまっている。

 散乱した宝物ごと謁見の間自体が徐々に形を失っていく中、盆上の少女の頭部だけが空中に居残っていたが、やがてそれも暗闇に溶け込むようにかき消えてしまう。


 悪い夢を見ているのだと気付きながら、エデンは消えていくローカの頭部に向かって無心で両手を伸ばし続けた。



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