第百七十三話 澎 湃 (ほうはい) Ⅱ
異種に身を委ねて半ば成り行き任せに大河をさかのぼる中、ふと自身の名を呼ぶ声を聞く。
聞き違いかと耳を疑うが、二度三度にわたって聞こえたことで、それが空耳や幻聴の類いではないと確信する。
剣の柄を固く握り締めつつ顔を上げて見たのは、進行方向の先、正市民区側の河辺で声を張り上げるホカホカの姿だ。
ホカホカの肩の上に乗ったマフタもまた、小さな翼を振り乱して声を上げていた。
「エデンー!! こっちー、こっちだよー!!」
「エデンっ!! こっち見ろ、こっちだ!!」
認知を得たと見るや、ホカホカは環状に束ねた縄を頭上高く掲げてみせる。
「いくよー!! これー!! つかまってー!!」
「いくからな!! つかまれ、つかまれよ!!」
普段のゆったりとして気長な印象からは想像も及ばない、熱のこもった声でホカホカが叫ぶ。
頭頂部に飛び乗ったマフタもまた、翼を突き出しながら声を枯らす。
「えーいっ!!」
ホカホカは頭上で回転させた縄を大河の中ほど、ちょうど頭の上のマフタの翼の指し示す先に向かって投げ放った。
翼を離れた縄は狙い澄ましたかのように異種の進行と重なり合う。
突き立った剣を支点にして身を乗り出したエデンの手は、輪状に結ばれた縄の端を取り損なうことなくつかみ上げていた。
「やったねー!!」
「よしっ!!」
繩の端を握ったホカホカと頭上のマフタは小躍りしながら快哉を上げていたが、次の瞬間には喜びは驚きへと色を変えていた。
「やった——うわあー!! うわあああああっー!!」
いかにホカホカがふくよかな身体の持ち主であるとはいえ、大河をさかのぼる泳力を有した異種の進行をただ一人で止められるはずもない。
引き連れられるかのように護岸の施された河辺を並走するホカホカだったが、やがて足をもつれさせて転倒してしまう。
それでもなお縄を手放そうとしないホカホカは、頭部の羽を握り締めて離さないマフタと共に異種に引きずられる形になってしまっていた。
とっさに縄を手放そうと試みるが、輪状になった縄が手首を締め付けて離さない。
「わああああああー!!」
「おわあああああっ!!」
「ホカホカっ!! マフタっ!! 縄を離して!!」
二人の嘴人がそろって地を擦る光景を前に、エデンは依然として異種に突き立ったままの剣を一瞥する。
胸に去来するのは、これ以上周囲の皆を身勝手に巻き込むわけにはいかないという思いだ。
力を使ってローカを見つけ出してくれだけでなく、弓の才をもって窮地を救ってくれたシオン、危険を冒すことをいとわず河の中まで助けにきてくれた先生。
そして今もこうしてマフタとホカホカを危ない目に遭わせてしまっている。
剣は取り返せばいいが、一度失えば戻らないものもある。
剣を持ち去られたならば、どこまでも追い掛けて取り戻せばいいだけだ。
「ごめん……!! ラジャン——!!」
再びの謝罪を告げて柄を握る手を緩めようとした瞬間、縄が絡んだ手に強い抵抗を覚える。
「うわっ……ぐ——!?」
肩が外れそうなほどの衝撃とともに、腕が後方へと強く引き伸ばされる。
自らの腕と縄の延長線上、河に引き込まれそうになるマフタとホカホカの後方を注視したエデンが認めたのは、両手で握った縄を引くラバンの姿だった。
水中を進んでいた異種を引きとどめてしまうほどのラバンの剛腕ぶりに、場違いながら感嘆を禁じ得ない。
左右反対方向に伸びるエデンの両腕を介して始まるのは、ラバンと異種との力比べだ。
気合の声を振り立てて縄を引くラバンにホカホカも加勢し、肩にしがみ付いたマフタも懸命に声援を送っていた。
「エデン!! 手を離すな!! 肩が抜けたら後で俺が入れてやる!!」
河音をかき消してラバンの声が響く。
それは肌身離さず携えていた剣がどれほど大切なものであるかを知ってくれているからこその言葉だ。
剣ごと引き抜くつもりか、ラバンは激しい雄たけびを上げて縄を引いた。
「うおおおおおお——!!」
ラバンの思いに応えるよう、エデンも身体が二つにちぎれそうになる痛みに耐えながら縄と柄を握る左右の手に再び力を込める。
直後のこと、あらがいでもするかのように異種が身じろぎしたことにより、わずかに刃の向きがずれる。
返された刃が体表を切り裂き、剣は今までの意固地さがうそだったかのように異種の身から抜け去った。
「うわあああっ!!」
ラバンとホカホカの引く縄に吸い寄せられるようにしてエデンの身体は宙を舞う。
他方で均衡を欠いたラバンたちも、三人そろって勢いよく後方へと倒れ込んでいた。
「け、剣が——」
繩に引かれて空中に投げ出されたエデンは、地に足の着かない中で時が止まるような感覚に陥っていた。
もどかしいほどにゆっくりと流れていく時間の中で、ラジャンの剣が掌から離れていくのが見て取れる。
手放そうと思ったわけではなかったのだが、渾身の力を込めて握り続けたことで硬くこわばっていた手は、突然の状況の変化に対応し切れずに剣を取り逃がしてしまっていた。
水柱を吹き上げての着水と同時に、遅延していた時間が元通りに流れ始める。
手首を締め付けていた縄も外れ、自由を得たエデンがラバンらの待つ河辺と剣の消えた水中を見比べたのちに取ったのは、沈んでいく剣を追って河底深く潜っていくという選択だった。
「——お願い、待って!!」
「おい、莫迦!! 何やってんだ、戻って来い!!」
マフタの放つ怒号にも似た声を背中に浴びながら、水中に沈んでいく剣を追って水をかく。
泳ぎであれば鉱山で水替えとして働いていた際にある程度のところまでは身に付けていたつもりだったが、水路と本物の河ではやはり勝手が違う。
懸命に追いすがろうとする意に反し、剣は緩やかに、だが確実に河底深く沈んでいく。
ローカを追っての全力疾走からの慣れない水中での激しい攻防、繰り返し行われた潜降と浮上、そこに身体を打たれた痛みも相まって、不意に意識が遠のいていく感覚に襲われる。
眠気にも似た脱力感に包まれて指先を伸ばしたまま気を失いかけるエデンの脇を、驚くべき速度で通り過ぎていくひとつの影があった。
影は——先生は沈んでいく剣を拾い上げたかと思うと、またたく間に急旋回し、両手で抱えたエデンの身体を河辺へと押し上げる。
朦朧とする意識の中で最後に見たのは、呼吸を荒らげながらも安堵を映した先生の顔と、血相を変えて駆け寄ってくるラバンら三人の姿、そして何事もなかったかのように上流に消えていく異種の水影だった。




