第百七十二話 澎 湃 (ほうはい) Ⅰ
◇
水流に逆らう形で進む異種に引き連れられ、エデンもまた大河を遡行していた。
河を下っていたときほどの速度ではないものの、異種は確実に上流に向かって進んでいた。
異物を体表に張り付けた状態のまましばし大河を遡上していた異種だったが、突如として水中深く潜行し始める。
河底に向かって身が傾けられていることを感じ取ったところで、ようやく異種が突き立った剣ごと異物をこそげ落すつもりなのだろうと思い至る。
「……! ……!!」
薄目を開けて下方に視線を送れば、河底が目前に迫っていることが見て取れる。
異種と河底の間に挟まれでもしたら、おそらくけが程度では済まないだろう。
最悪の場合、身体をすりつぶされて大河の一部にされてしまうかもしれない。
唯一の接点である剣から手を離せば一時的に状況を切り抜けられる可能性もなくはないが、水中で方向転換した異種が再び襲ってこないという保証もない。
「……!」
柄を握る役目を左手に引き渡し、外殻の隙間を手掛かり足掛かりにして側面からの退避を試みる。
水中で視界も定かではない中、激しい水流に身をさらしながらの登攀には難儀したが、迫る川底を下目に眺めながら異種の上面近くまで身を押し上げた。
とっさの判断で川底にすり付けられることは避けられた。
だが次に襲ってくるのは呼吸の問題だ。
肺腑の中の空気を使い尽くし、直ちに息継ぎが必要な状況に陥ってしまう。
窒息や溺死といった言葉が脳裏をよぎった瞬間、不意に異種が河底から浮上し始める。
「——っはあ……!」
図らずも水面から顔を出すことがかない、口を大きく開け放って胸いっぱいに空気を取り込む。
ようやく生きた心地を取り戻すもつかの間、異種が先ほどとは逆方向に胴部を傾げていることに気付く。
周囲の景色から水上高く身体が押し上げられていることを見て取ったエデンは、即座に進行方向に視線を定めた。
「……え、あ——うわあっ!!」
眼前に迫る橋桁を認め、反射的に身を屈める。
正市民区と準市民区を結ぶ橋、その橋脚の合間を通過する形で異種は大河を遡行する。
あと一秒判断が遅れていれば、間違いなく橋桁に衝突していただろう。
周囲の景色とともに流れていく橋を振り返り、遅れて訪れる恐怖に身震いする。
このまま異種が大河を遡上してくれるなら、多くの人の集う自由市場から遠ざけられるかもしれないという思いもなくはなかったが、心変わりがあって逆戻りする可能性も完全には捨てきれない。
それにいつまで剣とともに取り付いていられるかもわからない。
二度の危機的状況から脱するも、事態は好転したわけではなかった。
張り付いた異物を取り除くことに失敗した異種が、今一度水中深く身を沈めたからだ。
再度水中に引き込まれながら突破口を探るが、状況を打破する案を見いだすことのできないまま無為の時間だけが過ぎていく。
わずかでも気を抜けば、流れに押されて異種から引き剥がされてしまうだろう。
柄を握る手だけは決して離すものかと強く意気込むも、当然肺腑の中の空気は有限であり、いずれ限界が訪れるのは明白だった。
「……!!」
再び訪れる息苦しさに意識がもうろうとし始めたとき、エデンは後方から泳ぎ来る何者かの影をうっすらと開けた目で捉えていた。
上下に身を波打たせるようにして泳ぎ、またたく間に先を進む異種に追い付いたのは先生だった。
異種と速度を合わせて並泳し始めたかと思うと、逆さになった先生は尖った口先をエデンの口にあてがう。
泡状の空気を口移しで与えてもらい、かすみがかっていた頭が少しずつ晴れていくのがわかる。
息継ぎのための浮上と口移しを迅速に二度繰り返したのち、意識を取り戻したエデンに対して先生が行ったのは身ぶり手ぶりを用いた意思表示だった。
まずは剣を指し示し、続けて掌を開く。
それが「剣から手を離しなさい」を意図することは瞬時に理解できもすれば、この場において取るべき正しい行動であることも最初からわかっていた。
わかっていながら、どうしても剣から手を放すことができなかった。
今は武具というよりも装飾品の域を出ない代物だが、剣は里長ラジャンからの預かり物だ。
一時の気の迷いから売りに出そうと考えたことはあったが、交わした約束と固めた決意の象徴がこの剣だ。
どうしても手放すことはできない。
そんな思いを察してくれたのか、あるいは翻心させられないと知ってか、先生は水の中でもそうとわかる柔和な笑みを浮かべてみせた。
自らもまた異種に取り付いたかと思うと、先生は剣の柄を握るエデンの腕を取る。
「——!!」
「……!!」
先生と文字通り呼吸を合わせ、柄を握る手に力を込める。
思うように自由の利かない水の中の世界だが、二人力を合わせたことによりほんのわずかだが手応えを感じる。
このまま二人して引っ張り続ければ、剣を抜き取ることができるに違いない。
確信をもって顔を見合わせた瞬間、突如として急浮上した異種は水面を突き抜けるようにして勢いよく飛び上がっていた。
剣の柄を固く握り締めていたエデンは跳ね飛ばされずに済んでいたが、一方で先生の身体は頭上高く吹き飛ばされて宙を舞う。
「ひええええっ——!!」
「せ、先生っ!!」
先生は調子外れの叫び声を上げながら後方の水面に沈む。
振り返りながら名を呼ぶが、余裕を見せている場合などではないこともわかっていた。
今のところ呼吸の問題は解消されてはいるものの、依然として剣を抜くための手立てが見つからないからだ。
振り落とされないよう身体全体で異種の体表にしがみ付くと、エデンは柄を握る手に一層の力を込めた。




