第百七十一話 水 妖 (みずあやかし) Ⅱ
今まさに襲われんとしている二人の少女を目にした瞬間、エデンは一も二もなくごみ山を駆け下りていた。
「うわああああああ——!!」
その関心を少しでも自身に引き付けるため、わずかでも少女たちから意識をそらすため、雄たけびを上げながら異種との距離を詰める。
ごみに足を取られて思うように進めない中、異種は少女二人をのみ込まんと襲い掛かる。
あと一歩届かない。
二人に迫る異種を前にしてエデンが諦めを覚えかけたそのとき、三つの小さな影がプリンとサフリの前に躍り出た。
マルトが手にした拳大の石を思い切り投げ付けると、頭部に直撃を受けた異種の動きがほんの一瞬だけ止まる。
その隙に乗じ、少女二人の元に駆け寄ったバダルが腰を抜かしたプリンを抱き上げる。
バダルはプリンを小脇に抱えたまま引き続き石を投げ続けているマルトを担ぎ上げ、最後に怯えるサフリの手を引いてその場から走り去っていく。
どちらかといえば気性も気長で動作も俊敏とはいえない彼の見せた的確な動きに、エデンは思わず息をのんでいた。
背を向けて逃げる四人と異種との間に立ちふさがったのはムシカだ。
両手を広げ、歯を食い縛り、仲間たちが逃げ果す時間を稼ごうとでもするかのように、ムシカは襲い来る異種の前に立ちはだかる。
サフリはムシカの名を呼んで引き返そうとするもバダルがそれを許さない。
彼は暴れる彼女の手を強く引き、ムシカに背を向けて走り続けた。
「ムシカ!!」
エデンはその名を叫び、ごみ山から駆け下りる勢いのままにムシカを突き飛ばす。
そして均衡を崩しそうになる身体をなんとか持ち直すと、抜き放った剣で口腔を開け放った異種を斬り付けた。
倒れ込んだムシカを背にかばう形で異種に相対したエデンは、次いで口腔を閉じた異種に向かって牽制の横なぎを払う。
頭部を斬り付けられた異種はわずかに怯んだかに見えたが、そう都合よくはいかない。
「▄▂▁▂▆▇█▄▆█」
異種は金属を擦り合わせたような金切り音を放つと、エデンに向かって身をよじらせながらはい寄ってくる。
「ムシカ! 早く逃げるんだ!!」
自分一人で異種を打倒しようなどとは思っていない。
彼が逃げたのを確認したのちに、自身もすぐにでも逃げるつもりだった。
相手が河に生息する水棲の異種ならば、河辺から距離を取って振り切ることもできるはずだ。
「お、お前……どうして——」
「急いで!!」
ごみの上に倒れ込んだまま呟くムシカに対し、エデンは急き立てるように言う。
彼はがくがくと身体を震わせながらうなずくと、両手を突いてはいずるようにその場を走り去っていった。
その様を横目に見送ったエデンは、口腔を大きく開け放つ異種の姿を目に留める。
奈落に続く大穴のようなうつろを前にして、エデンは魅入られでもしたかのように身動きを止めてしまった。
「あ……」
追ってやってくる戦慄に、言葉にならない声を漏らす。
剣を振るおうにも震えがそれをさせず、身を起こして逃げようにも足腰に力が入らない。
あわや丸のみにされるかというところで、エデンは何かが頬をかすめる感覚を覚える。
風を切って飛ぶそれは、開け放たれた異種の口内に吸い込まれるように突き立った。
我に返ってその場に踏みとどまったエデンが見たのは、息つく間もなく次々と射掛けられる数本の矢だった。
「▇▆▄▂▆▇▆▇█▄▆█▂▁▂▆▇」
苦悶の叫びだろうか、異種は頭部をもたげて金切り音を放っている。
後方を振り向いて矢の放たれたであろう方向に視線を向けたエデンの目に映ったのは、陋屋の屋根の上に立つシオンの姿だった。
頭部の毛を一つに結って後頭部でまとめ、丈の長い袖をまくるように襷掛けをした彼女は異種に向かって弓を構えていた。
引き絞られた弦がはじけ、打ち出された矢は鋭い風切り音とともにエデンの頭上を通過し、閉じかかった異種の口腔に一直線に吸い込まれていく。
その見事としか言いようのない弓の腕前にあっけに取られるエデンに対し、シオンは大声で叫びを上げた。
「何をしているんですか——!! 早くそこから離れてくださいっ!!」
「あ……う、うん——!!」
答えて駆け出そうとするエデンだったが、後方で何かが大きく動く気配を感じ取る。
「——うわあっ……!!」
振り返ると同時に、身体に強い衝撃を覚える。
勢いよく吹き飛ばされて辺りのごみをまき散らしながら転がったところで、エデンは動きを止めた。
「……ぐっ」
うめき声を漏らしながら身を起こし、その尾か後肢のような部位で自身をたたき付けた異種を見上げる。
剣を握った腕を身体に引き寄せ、とっさに身を丸めて防御姿勢を取ったことで最悪の事態は避けられているはずだ。
身体はひどく痛むが、大事には至っていないはずだと自分自身に言い聞かせる。
異種は再度身をひねり、その頭部をエデンに向ける。
シオンは矢を放ち続けていたが、表皮を覆う硬い外皮によってはじき返されてしまっている。
その場からの弓射を断念した彼女は異種の正面に位置取りすべく、足を取られながらも起伏のある家屋の屋根を飛び移り始める。
その間も異種はエデンに迫り、巨体をもって伸しかからんとしていた。
異種が一段と高く頭部をもたげたその瞬間、エデンには確かに逃げるに十分な猶予があった。
獲物を追って陸上へ出過ぎたこと、口内に幾本もの矢を受けたことも異種の動きが鈍っていた理由の一つだろう。
踵を返して一目散に逃げるという選択が正しいことを理解していたにもかかわらず、エデンが取ったのは手にした剣で異種の頭部を突き上げるという蛮行にも等しい行動だった。
決して自身に異種を打ち倒す力があるとおごっていたわけではない。
ただ眼前の異種が大河の上流から現れたというのならば、それらがローカを襲っていないとも言い切れない。
その腹をさばき、そこに彼女がいないことを確認したい。
一度そう思ってしまうとと頭で考えるよりも先に身体が動いていた。
ラジャンの剣はエデンのそんな意志をくみ取ってくれるかのように異種の身を貫いいていた。
確実に貫きはしたが、一撃でその動きを止めるには至らない。
「う——うわあっ……!?」
異種は突き立てられた剣を除こうとやみくもに頭部を振り乱すが、想像以上に深く刺さっているのか刃はなかなか抜けない。
風に揺れる旗のようにエデンの身体は前後左右に振り回される形となる。
人であれば下顎に該当するであろう部位に剣を突き立てたまま、異種は大河の方向に頭部を向ける。
そして剣の柄を固く握ったエデンを引きずり、激しい水音を立てて水中へと身を投じた。
「手を——! 手を離してくださいっ!!」
水に引き込まれる直前のエデンが聞いたのは、シオンの悲痛な叫び声だった。




