第百七十話 水 妖 (みずあやかし) Ⅰ
腰が抜けてしまったかのように動けずにいる様をサフリとプリンを目にした瞬間、エデンは一も二もなくごみ山を駆け下りていた。
「うわああああああっ——!!」
わずかでも関心を引き付けられるならと、死に物狂いで雄たけびを上げる。
「こっちだ!! こっちに来い!!」
注意を誘引したのち、何をどうしようという腹積もりがあったわけではない。
気付いたときには山積するごみと一緒に転がりながら、異種に向かって必死に声を上げていた。
だが一刻の猶予も許されない状況下であるにもかかわらず、気が急けば急くほど足を取られて思うように進めない。
上流から流れ着いたであろうおびただしい量のごみは、確実に身体の自由を奪っていた。
今まさに鼡人の少女二人をのみ込まんと襲い掛かる水棲の異種を前にしながら、膝までごみに埋もれたエデンはなすすべなく無力をさらすことしかできない。
もはや打つ手なしかと諦めを覚えかけそうになる直前、視界に三つの小さな影を捉える。
鼡人の小柄な身体はごみの上でも沈み込むことがないのか、三人の鼡人の少年たちは機敏な動きをもってサフリとプリンの前に躍り出た。
「——食らいやがれ!! この野郎っ!!」
最初に動いたのはマルトと呼ばれていた少年だった。
身をひねるようにして後方に振りかぶった手から投げ放たれたのは、鼡人の小さな拳よりも数倍大きな石くれだ。
いつかエデンの頬をかすめた際の、足元を狙った際のような精密さを示す投擲ではなかったが、マルトの投じた石は的を外すことなく異種の頭部を捉えていた。
当然投石機からの射出のような威力を持たないそれは異種の動きを止めるには至らなかったが、ほんの一刹那の隙を生み出すことに成功したようだった。
一秒にも満たない時間ではあったが、異種が静止した瞬間を狙って二人の少女の元に駆け寄ったのはバダルと呼ばれていた少年だ。
「サフリ!! プリン!! つかまって!!」
バダルは姉の腕の中で固まってしまっていたプリンを肩の上に担ぎ上げ、続けて抱え込むようにして妹を守っていたサフリを小脇に抱え上げる。
姉妹二人を抱えて脇目もふらず走り去るバダルを援護するかのようにマルトは再度石を投じ、自らも背を向けて一目散に逃げ去っていく。
しかしながら石程度で一瞬以上の時間を許す異種ではなく、必死に逃げる四人に向かって襲い掛かる。
無防備な背をさらして逃げる四人と、身を波打たせて迫る異種との間に立ちふさがったのはムシカだった
固く歯を食いしばり、地と平行に両手を広げてみせるムシカから伝わるのは、身を投げ打ってでも仲間たちの逃げ果す時間を稼ごうとする、覚悟にも似た強烈な自己犠牲の念だった。
「ムシカっ……!! だめっ!!」
小脇に抱えられた体勢のまま悲痛な叫びをあげるサフリだが、バダルに足を止める様子は見られない。
並走しながらバダルからプリンを引き受けるマルトもまた、一切後方を顧みることはしなかった。
「ラジャン、ごめん——!!」
前もって謝罪の意を表明して腰帯から剣を抜くと、エデンは鞘をかき出し棒代わりにして進路を切り開く。
二、三度左右に鞘を振るってごみ山の中に異種へと続く道を見いだしたのちは、均衡を崩しそうになる身体を何度も持ち直しながらムシカの元へと走り寄った。
「ムシカ!!」
震える両手を広げて立ちはだかる少年の名を呼び、今まさに口腔を開け放たんとする異種を抜き放った剣で斬り付ける。
ムシカを背にして異種と相対したエデンは、次いで牽制の意を込めた横なぎの一閃を払った。
見よう見まねのふた振りで薄く表皮を斬り裂きはしたものの、無論その活動を停止させるには至らない。
「▄▂▁▂▆▇█▄▆█」
異種は金属を擦り合わせたかのような耳障りな金切り音を放つと、頭部をもたげてにじり寄ってくる。
「ムシカ!! 早く逃げるんだ——!!」
「お……お前、なんで——」
「いいから急いで!!」
あぜんとして呟くムシカを背中越しに急き立てる。
「う——うん……!!」
何度も転びながら走り去っていく後ろ姿を横目で見送ったエデンは、口腔を大きく開け放つ異種と再び正対する。
打倒しようなどとは毛頭考えておらず、ムシカが逃げ延びたことを見届けたのちは自らもすぐにこの場から離れるつもりだった。
対する相手が水棲の異種ならば、河辺から距離を取って振り切ることもできるはずだ。
だが口腔を開け放って迫る異種を前にして、奈落に続く大穴のごときうつろを目にして、エデンは魅入られでもしたかのように一歩も動くことができなくなってしまっていた。
「あ——」
追って背筋を立ち上ってくる名状しがたい戦慄に、思わず言葉にならない声が漏れる。
手にした剣を振るおうにも震えが治まる気配はなく、背を向けて逃げようにもなぜか足腰に力が入らない。
もはやこれまでと諦念に屈してしまいそうになるエデンだったが、何かが顔の脇すれすれを通り過ぎていく感覚に一瞬だけ恐怖を忘れる。
風を切り、ちっと毛をかすめて飛ぶそれは、開け放たれた異種の口腔内に吸い込まれるように消えた。
ともすればなえそうになる気力を奮い立たせ、どうにか崖っぷちで踏みとどまったエデンが見たのは、異種目掛けて次々と射掛けられる幾条もの矢だった。
「▇▆▄▂▆▇▆▇█▄▆█▂▁▂▆▇」
苦悶の喚きか怒りの叫びか、頭部を突き上げた異種が金切り音を放つ。
異種の発する大音量に耐えながら後顧し、矢が放たれたであろう方向に視線を巡らせたエデンの目に映るのは、河沿いに軒を連ねる陋屋の上に立つシオンの姿だった。
長く豊かな毛をひとつに結って後頭でまとめ、丈の長い袖をまくる形で襷掛けをしたシオンの手には一張の長弓が握られている。
引き絞られた弦がはじけると同時に、打ち出された矢は鋭い風切り音とともにエデンの頭上を通過し、閉じかかった異種の口腔に一直線に吸い込まれていく。
見事としか言いようのない弓の腕前にあっけに取られるエデンに対し、シオンは口の横に手を添えて声を張り上げた。
「エデンさん!! 何をしているんですかっ!! 早くそこから離れてくださいっ!!」
「あ、ありが——うん!! わ、わかった——!!」
感謝の言葉もそこそこに、こくこくと大きく縦に首を振って承服の意を示す。
指示に従って急ぎその場から離れようとするが、後方の異種がにじり寄るように動く気配を感じ取ったときにはすでに逃げる時機を逸していた。
「うわっ……!!」
「エデンさんっ!!」
振り返ると同時に、身体に強い衝撃を覚える。
辺りのごみをまき散らすようにして吹き飛び、数回転したところでうつぶせに横たわる。
「ぐっ……」
痛みをこらえ、うめき声を漏らしながら身を起こす。
尾か後肢か何かで激しく打たれた身体は痛苦に悲鳴を上げていたが、このまま寝転んでいては痛みを感じることさえできなくなってしまう。
「……大丈夫——!!」
自分自身に言い聞かせでもするかのように独り言つ。
剣を握った腕を身体に引き寄せ、とっさに身を丸めて防御姿勢を取ることができたのは、旅立ちを控えたわずかな日々の間に彪人たちから授けてもらった訓練の成果だろう。
手足も動けば負っているのもかすり傷程度、きっと大事には至っていないはずだ。
「だからそこから離れてくださいと言っていますっ!! 早く——!!」
再度響く声に後方を振り返れば、弓射を諦めて弓を下ろすシオンの姿が目に入る。
己の放つ一矢では強固な外殻を射抜けないことを察したのだろう、彼女は異種の正面に射位を確保すべく起伏のある陋屋の屋根を飛び移り始めた。
幾本もの矢を口腔内に射込まれた異種は、わずかだが先ほどよりも動きを鈍らせていた。
陸上へ出張り過ぎたためか、大河を下っていた際の猛烈な勢いも見られない。
狙いを定めるかのように一段と高く頭部をもたげてみせる異種を前にして、逃げるに十分な猶予は確かにあった。
シオンの言う通り、踵を返して一目散に逃げるという選択が正しいことも理解していた。
それにもかかわらずエデンが選び取ったのは、手にした剣で異種の頭部を突き上げるという蛮行にも等しい行動だった。
「やあっ!!」
決して異種を打ち倒す力があるとおごっていたわけではない。
本来の主のように、自在に剣を扱えるとうぬぼれていたわけでもない。
ただひとつ、どうしても確かめたいことが、確かめなければならないことがあった。
眼前の異種が大河の上流から現れたのであれば、それらがローカを襲っていない保証はどこにもないのだ。
腹をさばき、そこに彼女がいないことを確認したい。
一度そう考えてしまうと、考えるよりも先に身体が動いていた。
剣はそんな意をくむかのように異種の外殻を貫き通す。
「う——うわあっ……!?」
確実に貫きはしたものの、一撃で動きを止めるには至らない。
異種は突き立てられた剣を除こうとやみくもに頭部を振り乱すが、想像以上に深く刺さった刃はなかなか抜けることはなかった。
エデンの身体は風に揺れる旗のように前後左右に振り回される形となる。
口腔の下部、人であれば下顎に該当するであろう部位に剣を突き立てたまま大河の方向に身をひねった異種は、剣の柄を固く握ったエデンを引きずりながら激しい水音を立てて河中へと身を投じる。
「エデンさん!! てっ!! 手を離してくださいっ——!!」
水中に引き込まれる直前にエデンが聞いたのは、シオンの放つ悲痛な叫び声だった。




