第百七十話 水 妖 (みずあやかし) Ⅰ
「異種が……水の中を泳いでるんだ」
橋上から上流を遠望するエデンの目に映ったのは、水面を切り裂くように疾走する幾条もの影だった
形状も数も定かではなかったが、水中を下流に向かって進む人でも船でもない何かがその上部を水面からのぞかせている。
河を下る速度は相当に早く、このままでは短い間にいまだ人々の残る準市民区の河辺へと達してしまうだろうことが見て取れた。
「あれは……」
上流を見据える中、ふと視界の端に何か動くものを捉える。
迫る異種に意識を残しつつ陸上に視線を滑らせれば、目に映るのは大通り側の路地から数台の器具が衛兵たちによって運ばれてくる様子だ。
車輪を履かされているのは先ほどの木柵と同様だが、別の用途で使われる道具であろうことが形状から見て取れる。
木製の枠組みの中央にひときわ太く長い木材が組み付けられ、末端には食事の際に使われる椀によく似た巨大な部品を備えていた。
衛兵たちは器具の周囲に陣取り、おそらく固定のためであろう脚部を四方に展開し始める。
椀部分に丸く形を整えられた石の塊が載せられたかと思うと、勢いよく跳ね上げられた木材は石を空高く放る。
木製の器具から射出された石は大河の方向へ放物線を描いて飛び、水柱を立てて河面に着水した。
複数の異種であろう影が水中を滑るように移動する様を目にし、エデンは器具の用途が石を投げ放つことで攻撃を加えるための兵器だと気付く。
衛兵たちは紐を巻き取ることによって跳ね上がった木製の腕を低め、椀部分に次の石を乗せ始める。
間もなく放たれた二射目だったが、一射目同様に異種に効果的な損傷を与えられているようには見えなかった。
「あ、当たらない……!!」
投石をかわした異種は対岸側に寄る形で流れを下り、大河に架かる橋へと急迫する。
刻々と近づいてくる異種を橋の上から見据え、再度正市民区側の護岸に視線を移す。
二度の撃ち損じをしたのちの三射目ならば、きっと命中の見込みも高いはずだ。
そんな期待を抱いて衛兵たちを見詰めるエデンだったが、彼らが一向に新たな石を装填するそぶりを見せないことに気付く。
それどころか面前を泳ぎ抜けていく異種をまるで見送りでもするかのように眺めていた。
「当たらないんじゃなくて——」
最初から当てようとしていないのだしたら。
相応の距離があるため明確ではないが、器具の——投石機の放つ石の大きさは両手で抱えられる果物ほどの大きさだろう。
過去の遭遇を思い返せば、その程度の質量の石が命中したとしても異種の強固な外殻を貫けるとは到底思えない。
だがもしも水中を進むそれらを遠ざける意味で放たれていると考えるなら、投石器は十二分に役目を果たしていると考えられなくもない。
上流から下流にかけて護岸工事の施されている正市民区の河辺から、ごみであふれる準市民区側の河辺へと異種を押し付ける目的であるのなら。
大河の中央を進む異種は眼前まで迫りつつあった。
がくぜんとした思いを抱きながらも、エデンは欄干から身を乗り出すようにして上流を見据える。
先頭を進む異種が水面から体表をさらす様子を目の当たりにし、湧き上がる戦慄に橋の中央辺りまで後ずさりするが、震える身体を叱咤して腰の剣に手を伸ばした。
刃を抜き放とうと柄に手を掛けた瞬間、異種は突如として水中に身を沈下させる。
「え——」
柄を握る手が凍り付いたかのように硬直してしまった直後、異種は水面から頭部を現し、激しい水しぶきをまき上げながら宙へと躍り上がった。
弧を描くように頭上を飛び越えていく異種を、剣を抜くことができないまま目で追う。
表皮は地上を歩む異種と同じく無機質な外皮に覆われているが、流線型の外形と櫂を思わせる前後の肢は、水中での遊泳に特化した水棲固有の特徴であることが読み取れる。
橋を飛び越えた異種は頭部から大河に着水したかと思うと、何事もなかったかのように下流へと進んでいく。
下流側の欄干に取り付き直すエデンの足下では、数匹の異種が先頭を進む一匹の後を追うようにして橋桁の下をくぐり抜けていった。
「早く知らせないと……行かないと——!!」
事ここに及んでは、知らせてどうにかなる段階ではないかもしれない。
満足に剣を抜けない者が行って、どうこうできる状況でもないこともわかっている。
橋を渡り切って対岸にたどり着いたのちは、河筋に沿って転がるように河下へと走った。
正市民区の河辺と違い、準市民区の河辺は人の手の入っていない砂地のままだ。
砂地の上に大量のごみが堆積しているとなれば、足を取られて走りづらいことこの上ない。
下流へと走り続けるに従って流れ着いたごみや投棄されたであろう廃物の量も増えていき、ますます足が鈍って仕方なかった。
砂地が見えなくなるほど積み上がったごみの山を乗り越えて走り続けるうち、ようやく異種の接近に気付いて逃げ出し始める人々の姿を捉える。
「早く!! 早く逃げて!!」
ごみ山をかき分け進みながら声を張り上げる。
すでに逃げ始める人々に今更という思いもなくはないが、それでも声を上げずにはいられない。
河辺に集まった準市民区の住人たちの多くは逃げ去っていたが、一方で逃げることのかなわない者もいた。
堆積したごみに足を取られ、あるいは崩れた廃物の下敷きになり、どうにかして抜け出そうと必死にあがく者たちだ。
そんな人々を標的に選んだのだろうか、異種は巨体をもってごみの山を押しやるようにして陸上に身を躍らせる。
そして巨大な口腔を開け放った異種は、足を取られて身動きの取れない獣人の一人を周囲に散らばった廃物ごとひとのみにした。
「あ——」
眼前で起こる惨事に、あぜんとして言葉を失う。
これまでの旅の中で人が異種に襲われる場面に出くわしたことは何度かあったが、実際にのみ込まれるところを目の当たりにしたのは初めてだ。
異種は人を襲う、人を食う。
戒めを込めて幾度となく聞かされてきた習性ではあるものの、実際に行われる様を目にして胸をえぐられるような衝撃を覚える。
ごみ山の上で虚脱したように立ち尽くしていたエデンだったが、突如として聞こえてきた悲鳴によって半ば強制的に我に返らされる。
周囲を見回してみれば、襲われたのが先ほどの一人だけではないことがわかる。
陸上に乗り上げた数匹の異種は逃げ遅れた人々を次々と襲い、のみ込み終えては身をひるがえして大河へ戻っていく。
あちらこちらから悲鳴と絶叫が響く中、悠々と水中を回遊する異種の姿を前にして、胸の内に湧き上がってくるのは種々入り交じったやり場のない感情だ。
恐れと怒り、驚きと諦め、ないまぜになって爆発しそうになる感情をあと一歩のところで押し殺すことができたのは、ごみ山から見下ろせる場所でうずくまる二つの小さな姿を認めたからだ。
尻もちをつくようにして座り込んでいるのは、以前に先生の居所まで案内してくれた鼡人の少女プリンだ。
その傍らで動けなくなってしまった妹の肩を抱くのは、彼女の姉であるサフリだった。
恐怖と絶望に満ちた二人の視線の先をたどれば、そこには今まさに姉妹に迫らんとする一匹の異種の姿があった。




