第百六十八話 此 彼 (しひ) Ⅰ
シオンの力を通じて触れ得たのは、他の人々の放つ光のように激しく脈動するわけでもなく、力強い拍動を打つわけでもない小さな瞬き。
闇の中に探り当てた密やかな白光、それがローカであることを直感的に理解していた。
光の瞬きを感じ取った場所を大河の川筋と照らし合わせる形で推し測れば、ローカは流れに沿って遡上した先にいるはずだ。
準市民区を河沿いに走り、大河に架かる橋を渡り始めたところで、エデンは周囲の様子が平時と違うことに気付く。
対岸の正市民区の河辺に人はまばらで、代わりに何度か目にしている橋番とそろいの衣服を身に着けた幾人かの姿が見て取れる。
槍や刀などを手にして慌ただしく動き回る衛兵たちの姿を眺めるうち、徐々に不安の念が膨らんでいく。
橋を渡る間も絶えず目に映るのは、衛兵たちが河辺に残った人々を追い立てる光景だ。
普段であれば炊事に洗濯、祈りを捧げる人々などで賑わう河辺が珍しく閑散としている様相に、ますますもって胸騒ぎが強くなっていく。
火が消えてしまったかのように静まり返った河辺の護岸では、衛兵たちが遠く上流の方向を見据えていた。
「ど、どうしたの? みんなどこへ行っちゃったの……?」
上流に目を凝らしていたためか、衛兵の一団は橋を渡って歩み寄るエデンに気付くそぶりを見せなかった。
一斉に振り向いた衛兵たちはそろって不可解そうな面持ちを浮かべ、いら立ち交じりの声を上げた。
「お前、こんなところで何をしている!! まだ逃げていなかったのか!! 油を売っていないでさっさと逃げろ!!」
「に、逃げるって……どこへ? それに何から……?」
エデンには衛兵たちの言葉の意図も、何に対していら立ちを覚えているのかもわからない。
ただ純粋に疑問を口にしただけだったのだが、そのひと言は衛兵たちの反感を買うには十分過ぎる様子だった。
「お前っ!! 莫迦にしているのかっ!!」
「し、してない……!! 莫迦になんてしてないよ!!」
衛兵の一人が憤慨したように声を荒らげる。
動転しながらもなんとか誤解を解こうと懸命に訴えるエデンに対し、荒々しい足取りで進み出た別の衛兵が怒りをあらわに声を上げた。
「貴様っ!! 剣など提げてなんのつもりだ!? 旅の剣士か何か知らんが、早くここを離れろと言っているんだ!! 異種がそこまで迫っているんだぞ!!」
「え——」
想像だにしていなかった言葉に思わず絶句する。
「上流の巡邏から異種の姿を捉えたとの報告を受け、こうして警戒に当たっている!! 何度も言わせるな!! どこへなりとも消えろ!!」
「い、異種が……」
がくぜんとして呟くが、恐れてばかりいられないのは衛兵の口にした言葉の中に看過できない単語を聞き取っていたからだ。
この場から見て大河の上流といえば、今まさにローカを追って遡上しようとしていた地点に他ならない。
突然の異種の出現、それもよりによってローカが向かったであろう先にとあっては、動揺を覚えるなというほうが難しかった。
気付けば数人の衛兵たちに周囲を取り囲まれている。
いら立ち、憤り、奇異、好奇、種々さまざまな感情のこもった視線が無遠慮に浴びせられる。
「い、行かないと——」
周囲を取り巻く衛兵たち、そのうちのひとりの手が腰のものに伸びる様を見て取った瞬間、エデンは半ば衝動的に走り出していた。
このままこの場にとどまっていては取り押さえられて自由を奪われかねない。
そうなってはローカを連れ戻すどころか、捜すこと自体かなわない状況に陥ってしまう。
何はさておきローカを捜し出すのが先決だ。
衛兵たちの間をすり抜けて上流の方向へ進もうとするエデンだったが、後方から首根をつかまれ、あっけなく拘束されてしまった。
「ぐっ……」
そのまま引き倒され、護岸の上に押さえ込まれる体勢になる。
「いい加減にしろ!! これ以上我々の手を煩わせるな!!」
「い、行かないといけないんだ!! このままじゃローカが——!!」
力ずくで押さえ付けられ、一層激しい剣幕で怒鳴りつけられるも、なりふり構わず食い下がる。
一向に抵抗をやめないエデンに業を煮やしたのか、衛兵は首根をつかんでいた手で首元を締め上げる。
そのまま足先が地に着かない高さまでつり上げられたエデンは、打ちやるようにして放り出されてしまった。
「うわっ……!!」
「いいか、よく聞け。旅人は正市民同様に保護せよとの条目に従う我らだが、自ずから権利を放棄する者を助ける義務はない!! それを知ってなお邪魔をしようものなら、異種の前に貴様を斬って捨てることになると思え!! ——消えろ!!」
無様に転がるエデンを見下ろすと、衛兵は抜き放った曲刀をもって大通り側を指し示した。
「異種がここへ……」
横たわったまま呟き、思い返すのはいつか見た恐るべき姿だ。
鉱山で対峙した際の言い知れぬ恐怖が鮮明に思い出され、背筋の凍り付くような感覚がよみがえる。
もしも異種が多くの人々が暮らすこの自由市場を襲った場合、いったいどれほどの被害をもたらすのだろう。
左右にぶんぶんと頭を振り、悪い想像を振り払う。
周囲を見渡せば正市民区の住人たちはみな避難を終えているようで、河辺に残っているのは衛兵たちだけだ。
路頭に迷いそうになっていたところを見つけてくれ、家族として受け入れてくれたラバンとラヘル。
商い人として培った知識を経験を元に、幾度となく貴重な助言を施してくれたマフタとホカホカ。
皆避難を済ませているだろうかと思いを巡らせていたそのとき、ふと胸中にある考えが去来する。
「ま、まさか……」
思い違いであってくれたなら。
強く願いながら身を起こすと、上流を見据える衛兵の一団に背を向けるようにして走り出した。




