第百六十七話 天 耳 (てんに) Ⅱ
自らの意志で視界を閉ざし、シオンによって両耳をふさがれた瞬間、深い闇の中に沈み込んでいく感覚を覚える。
意識や精神が身体から解き放たれるかのような感覚は、視界の及ばぬ遠方を見通すローカの力に触れたときとよく似ていた。
だが周囲を認識することさえままならない闇の中で正気を保つのは困難極まりない行為だった。
『——大丈夫です。ここにいます』
黒一色で塗りつぶされた無音の闇の中で再び錯乱状態に陥りかけるエデンを引き戻したのは、耳という器官を通すことなく直接心に語り掛けてくる声だった。
波立っていた心が徐々に落ち着きを取り戻していくのを感じ取ったかのように、今一度シオンの声が響く。
『音に心を澄ませて』
闇の中にあって、耳を含む身体は失われてしまっている。
耳という器官なくして音を聞くなど不可能と判じそうになるが、ふと思い出すのはローカの力の一端を共有した際の感覚だ。
身体全体を使ってはるか遠方の光景を俯瞰したあのときと同じように、周囲を取り巻くであろう音の数々に心を傾ける。
『そうです』
間違いではないと同調するように響くシオンの声が契機となって、うつろだった暗闇の中に小さな光が生まれ始める。
不規則に起伏する波状の光が寄り集まって色を帯び、次第に漠然とした形を成していくのがわかる。
確固たる形状を持たない光の集合でしかなかったが、エデンにはそれがシオンそのものであると確かに感じられた。
シオンとおぼしき光の波は、おそらく指先であろう部位をもって一方向を指し示す。
するとどういう訳か、闇の中に突如として巨大な光の波が現れる。
無数の光をのみ込んで泰然と進む巨大な奔流、それが自由市場の二つの区画を両分するように流れる大河だと気付くにはそれほど時間はかからなかった。
形と色を成したのは大河だけではなかった。
シオンの言葉に従って心を澄ませば、大河の周囲を行き交うとりどりの小さな光の群れの存在を感じられる。
夜空に瞬く星のようなそれらひとつひとつがこの自由市場に生きる人々の生命の輝きなのだと理解すれば、驚愕と感慨に言葉を失わずにはいられなかった。
心を澄ませば澄ますほど、光の波を感じ取ることのできる範囲が広がっていく。
巨大な大河の傍流、無数の人々が行き交う往来の中に認めたのは、群衆をかき分けて駆け回る二つの光だ。
小さな光は角々しくも躍動的に波打ち、どこか穏やかで包容力に満ちた大きな光が後を追随する。
特徴を異にしながらも同じ方向に向かって進む二つの光によく知る二人の嘴人の姿を見て取り、エデンは感極まる思いを抑えることができなかった
『そう。同じようにローカさんを捜して』
心に響くシオンの声を受け、改めてローカの姿形を強く思い描く。
偶然か必然か出会いを果たしたのちは、ともに逃げ、ともに旅立ち、ともに暮らすことになった少女。
不可思議で捉えどころのない印象を感じさせつつも、大事な場面では常に一歩先を歩み続けてくれた少女。
そんなローカの放つ命の光の色を周囲を行き来する光の群れの中に求め、懸命に神経を研ぎ澄ませた。
——見つけた。
声を上げようとした刹那、周囲を包んでいた闇が瞬く間に晴れる。
織り成された音の波が光となって輝く暗闇の世界は露と消え、辺りは石造りの屋上へと塗り替えられていた。
「……見つけたんですね、ローカさんを」
耳朶に響く声と肩に伸しかかる重みが、エデンを闇の余韻から解き放つ。
身を預ける形でしなだれるシオンの息遣いは荒く、今にも昏倒してしまいそうなほど疲れ切っているように見える。
有する力がローカと同じ類いのものであるなら、行使にあたって大きな負荷がかかる点もまた同様なのだろう。
糸が切れてしまったかのように脱力する身体を支えようと試みるエデンだったが、シオンは弱々しいながらも断固とした意志を込めて拒んでみせた。
「……行ってください。ローカさんのところへ」
崩れ落ちる身体を自らの両手で支えながらシオンは言う。
「け、けど……」
「私のことはいいから!! 早く行ってあげてください!!」
「う、うん……!! シオン、ありがとう!! 行ってくる!!」
追い立てるように言うシオンに向かって感謝を告げたエデンは、いまだ続く暗闇の余波か、足が地に着かない感覚を抱えながら地上へと続く階段に向かって走り出した。
いくばくかの未練を残しつつも転げるように階段を駆け下りる途中、ひいひいと息を切らせて上ってくる先生と鉢合わせになる。
「先生!! シオンが……!」
「あの子なら大丈夫です。それよりエデン君、君は早く——!!」
言って屋上を差し示すエデンに対し、先生もまた急かすような調子で声を上げる。
「ローカ君を見つけてあげてください!! もう一度、貴方がです!!」
屋上へと足を運ぶ先生の後ろ姿を一瞥したのち、エデンは地上へと続く階段を数段飛ばしで駆け下りていった。




