第百六十六話 天 耳 (てんに) Ⅰ
「シオン、ど、どこへ行くの!? ローカの居場所がわかるの——!?」
「これから捜すところです!!」
「さ、捜すって、でもそっちは……」
手を引かれる形で走りながら、先を行く少女の背に声を掛ける。
後方を顧みることなく答えるシオンだが、エデンには彼女の行動の意図がつかめない。
なぜなら前方を走るシオンの向かう先が、先生と彼女の暮らす石造りの家の方向だったからだ。
「説明は後ほどします!! いいから四の五の言わずに付いてきてください!!」
質問を許さぬ剣幕で言い放つと、シオンは勝手口から屋内に足を踏み入れる。
長衣の裾をつまみ上げて階段を駆け上がっていく彼女に手を引かれ、エデンもまた踏板の左右に積み上げられた書物の山を崩しながら後に続いた。
内壁の四面に設けられた階段を直角に折れる形で階段を駆け上り、塔屋の戸を開け放って屋上へと飛び出す。
手を離したシオンは建物の縁まで歩を進めると、後方のエデンを一顧しつつ告げた。
「少々お待ちください。心の準備が必要ですので」
昨日下方から見上げたときと同様に扶壁の上に飛び乗った彼女は、大河を望むように前方を見渡す。
「シ、シオン……! 何をしてるの……!?」
そのまま飛び下りてしまうのではないかと慌てるエデンをよそに、シオンは両腕を身体の左右に広げて顔を上向けた。
少女の降る雨を総身で受け止めるかのような所作を前にエデンが感じたのは、どこかで似たような光景を見たことがあるのではないかという既視感めいた感覚だった。
「も、もしかして君も……」
扶壁の上のシオンのしぐさに、力を行使する際のローカの姿が重なる。
思い返してみれば、つい先ほど先生は力という言葉を口にしていた。
この場において、力という言葉が示すのが腕力や体力といった物理的な力などでないことは明らかだ。
姿を消したローカを見つけ出すための力、それが足を使うことや知恵や知識をもって事に臨む以上の意味を持ち得るのだとしたら、シオンもまたローカと同じ類いの力の持ち主ということになりはしないだろうか。
そんな考えに至った矢先、突如として目に飛び込んできたのはシオンの身体がぐらりとかしぐ様子だった。
のけ反るようにして背中から倒れ込む彼女を目にした瞬間、エデンは反射的に身を躍らせていた。
「シオンっ——!!」
倒れ込んでくる彼女を抱き留めると、自らの身体で衝撃を和らげるようにして背中から後方に身を投げ出す。
「ぐっ——」
石の床が腰を打つ衝撃に小さな叫びを漏らしながら、腕の中のシオンの安否を確認する。
見たところ目立った外傷はない。
安堵を覚えたのもつかの間、どういう訳か不意に訪れたのは視界が暗闇に包まれるような不可思議な感覚だった。
いたずらで目を覆われでもしたのかと考えたが、この場にそんな悪ふざけをする者などいるはずもない。
己の身に何が起こったのかを認識できないまま周囲に注意を払うが、どれだけ目を凝らそうとも辺りを見渡すことはできない。
つい数瞬前までそこにあったはずの先生の家も周囲の景色ごと失われ、日の光さえも差さない無の中に閉じ込められてしまったかのようだった。
周りだけではない。
気を抜けば己の肉体さえも暗闇に溶けてしまいそうになる。
未知の感覚に襲われ恐慌を来しそうになる寸前、不意に感じたのは右手を包む温かな感触だった。
存在の不確かな左手でもって微かに熱を帯びた右手に触れた瞬間、闇に包まれていた世界はたちまち光を取り戻す。
尻もちをついた状態で我に返ったエデンの眼前にあったのは、気遣わしげなまなざしで見下ろすシオンの姿だった。
「エデンさん! エデンさん!! 大丈夫ですかっ!?」
「う、うん……」
答えて周囲に視線を巡らせれば、世界は元通りの形を取り戻している。
膝立ちの姿勢で不安げに見詰める少女の腕の先には、先ほど消え失せてしまったかに思われた己の手も見て取れた。
そこで闇の中から引き戻してくれたほのかな熱の源が、彼女が両の掌で包み込むように握り締めてくれている右手であることに気付く。
「申し訳ありません……! 久々でしたので大変な失態を演じてしまいました」
「か、身体は大丈夫だけど……真っ暗で——何も見えなくて……」
いまだ視線の定まり切らない中で半ば放心気味に口走るエデンに対し、シオンは目を見開いて驚嘆の表情を浮かべた。
「エデンさん、貴方にも聞こえたのですか……?」
「き、聞こえ……? わからないけど——急に真っ暗になって、何も見えなくなって——それで……」
言葉を詰まらせながら自らの身に起こった状況を語る。
シオンはしばし考え込むようなそぶりを見せたが、やがて意を決したように口を開いた。
「わかりました。貴方も私と一緒にローカさんを捜してください。貴方にならばきっと彼女を見つけられます」
「じ、自分が……」
「そうです。貴方と私とで——です」
「……うん、やってみる」
依然としてローカを捜すための具体的な方策はわからないままであったが、持ち掛けられた提案に一も二もなく応じる。
丈長の衣服の裾をさばいたシオンは膝行るようにしてエデンの背後に回り込むと、頬が触れ合うほどの距離で肩越しに大河を望んだ。
「え……」
続けて彼女が取ったのは、両の掌で顔を覆うという不可解な行動だった。
「シオン、これじゃ……」
「じっとしていてください」
突然目隠しをされて当惑を禁じ得ないエデンに対し、シオンはただひと言切って捨てるように言う。
そのままエデンの背に沿う形で自らの身体を添え当てた彼女は、そっと耳打ちするように告げた。
「まずは目を閉じてください」
「で、でも……」
視界はすでにシオンの掌によって封じられており、何も見ることのかなわない状態にある。
再び言葉を返そうとしたところで考えを改め、ここは彼女の指示に従うことにする。
シオンがローカと同じ類いの力の持ち主であるのなら、いつかつり橋の上での出来事のようにその一端を共有することができるかもしれないのだ。
先ほど落ち込んだの暗闇の世界の中にローカを捜し出す手立てがあるというのなら、シオンから下される達しにあらがう選択はない。
目を閉ざしたことが掌越しに感じ取ったのだろう、シオンが小さくうなずくのが触れ合った身体を介して伝わってくる。
「そう、それで大丈夫です。……次は音です。音を断ってください」
「み、耳は——」
まぶたは閉じられても、自らの意思で耳をふさぐことは不可能だ。
「できます」
異を唱える言葉が完全に発せられる前に、シオンは強く念を押すかのように言う。
そしてエデンの目を覆っていた掌を、今度は顔を挟み込むようにして左右の耳に押し当てた。




