第百六十五話 神 隠 (かみがくれ)
「ローカ! どこにいるの!? ——ローカ!!」
居室として借り受けるまでは物置として使われていた屋根裏部屋に、人が隠れ得る余地などあろうはずもない。
天窓もはめ殺しになっているため、そこから抜け出すことも不可能だ。
「ローカ、どこ!? どこへ行ったの!?」
それでも少女の名を呼びながら部屋中を引っかき回し、屋根裏に姿が見えないと知っては半ば滑り落ちる形で梯子を下った。
「うわっ——!!」
顔面から床に突っ伏したところで、つい先ほどまで屋根裏へと延びる梯子に身体を預けて座り込んでいたことを思い出す。
ローカが梯子を伝って下りてきたのであれば、どれほど注意を欠いていても気付かないわけなどない。
一人盛んに物音を立てて大騒ぎするエデンの元に、何事かとラバンとラヘルが駆け付ける。
「どうした」「どうしたの」と努めて落ち着いた口調で尋ねる二人に対し、なんとか事情を伝えようと試みる。
だが懸命に説明しようとすればするほど、口は空回りするばかりで中な要領を得ない。
「落ち着け」
「あ——う、うん……」
ラバンにがしりと肩をつかまれ、わずかながら落ち着きを取り戻す。
「ロ、ローカが……ローカが——」
しどろもどろではあったがローカが影も形もなく消え失せてしまったことを伝えると、ラバンとラヘルも信じられないといった様子で表情を硬直させてしまった。
ローカが急に姿を消すのは珍しいことではなく、ふらりと消え、ふらりと戻ってくることは何度もあった。
いなくなってしまったことを知って慌てるも、気付けばいつの間にか傍らに戻っているのが常だった。
しかし昨夜からの彼女の様子を振り返ればどうしてもその時と同じとは思えず、 うずくような胸騒ぎを抑えることができなかった。
エデンの尋常ならざる動揺ぶりから事の深刻さを察したのだろう、ラバンはラヘルに家で待つよう言い含め、自らはローカを捜しに出ると告げる。
「何をしている。エデン、お前もローカを捜しにいけ。心当たりがあるのだろう」
「う、うん……!!」
昨日の行動などお見通しだと言わんばかりの口ぶりでラバンが言う。
答えて家を飛び出そうとしたところで、不意に引き留めるように後ろから肩をつかまれる。
「わ——」
「持っていけ。必要になるかもしれん」
差し出されたのは腰帯から抜いて置き放してあったラジャンの剣だった。
剣が必要になるとき——ラバンの言葉の意味するところを想像し、身の引き締まる感覚を覚える。
「う、うん……!! ラバンは河のこっち側をお願い!! 自分は——」
「わかっている。いいから行け」
切り捨てるように言ったかと思うと、ラバンはひと足先に家を出ていった。
「……エデン、ローカをお願い」
「うん、任せて」
不安げに見詰めるラヘルに目いっぱいの強がりで応じ、震える手を叱咤するかのようにぐいと腰帯に剣を差し込んだ。
「ローカ!! ローカ!? いたら返事して!!」
住宅の立ち並ぶ裏路地を右に左に、見慣れた市場を少女の名を連呼しながら走り抜ける。
何事かといぶかしむような視線などお構いなしに声を張り、数本の道の交わる辻に至っては立ち止まって周囲に彼女の姿を捜し求める。
なぜそんなふうに思うのかはわからないが、この機を逃せば金輪際ローカに会うことができないかもしれない。
予感めいた危惧の念に駆り立てられるように、何度も転びそうになりながら走り続けた。
目的の場所に向かって走る途上、ふと思い立って足を止めたエデンは、今来たばかりの道を急ぎ引き返す。
大通りを抜けて多くの行商人たちが露店を開く広場までたどり着くと、もはや顔なじみと言ってもよいであろう二人の嘴人の姿を辺りに探して回った。
「マフタ!! ホカホカ!!」
今まさに開店の準備を終えようとしていた二人を見つけ、名を呼んで店先まで駆け寄る。
「おい、どうかしたか? 何かあったか!?」
「だいじょうぶー、エデンー?」
両の膝に手を置いて乱れた呼吸を整えるエデンの顔を、二人の嘴人は気遣わしげな表情でのぞき込んでくる。
「ロ……ローカが——」
知らぬ間に姿を消してしまったことを伝える。
二人は顔を見合わせてうなずき合うと、たった今広げたばかりの品々を手早く片付け始める。
捜索の手伝いを二つ返事で引き受けてくれた二人に感謝を伝え、エデンは目的の場所を目指して再び走り出した。
ローカが明らかに普段と違う様子を見せ始めたのは、昨日先生の家を訪れて以降のことだ。
ムシカを捜して河辺に向かった際も、戻って先生から話を聞いた際も、ローカはいつも通りのローカだった。
変調が見られ始めたのはそれよりもっと後、崩れた書物の山の中から一冊を取り上げたときに他ならない。
書物の中にいったい何を見たというのだろう。
それを知るためにも、まずは先生を訪ねる必要がある。
エデンは能う限りの全速力をもって大河に架かる橋を走り抜けた。
準市民区に建つ家々の合間を通り抜けて先生の家にたどり着くや、何やら険しい表情で勝手口の前に立つ二人の姿が目に飛び込んでくる。
「先生っ!! シオンっ……!!」
絶え絶えの呼び声を耳にし、二人は急ぎ足でエデンの元に駆け寄って来る。
先生は息が上がって激しく上下するエデンの肩を両手でつかむと、珍しく取り乱した口ぶりで言った。
「エデン君、よかった!! 今、シオンを知らせに向かわせようとしていたところだったんです!!」
「し、知らせに……?」
「ええ、そうです!! すぐに知らせねばと思い、まさに今これから貴方のところへ——いや、こうして貴方が独りでここを訪れたとなると話は変わってきます。……どうやらひと足遅かったようですね」
言葉半ばにして徐々に先生の声色が変化していく。
嘆ずるような口ぶりで語る先生を見上げ、肩をつかまれたままのエデンは自らも長衣の襟元をつかみ返した。
「先生!! どういうこと……!? ローカがどこに行ったのか知ってるの——!?」
「ざ、残念ながら行き先はわかりません。しかし原因のひとつが私の手元にあることは確かです」
襟元を締め上げられながらもあらがうこともせず、先生は静かに答えて傍らのシオンをちらと見やる。
送られる視線を許可と捉えたのか、シオンは見覚えのある一冊の書物をエデンに向かって差し出した。
「こ、これ……!! やっぱりあのときの——」
ぼうぜんと呟きながら、視線をシオンの手の中の書物へと落とす。
まったくの意想外というわけではないにもかかわらず、いざそれを目にすると動揺を覚えずにはいられない。
固く握り締めていた先生の衣服から手を離し、受け取った書物の頁を震える手で繰っていく。
襟元を正しながら「こほん」と呼吸を整えた先生は、先ほどよりもいくらか落ち着いた口調で言った。
「昨日お二人がお帰りになられたあと、気になるところがあって私もそちらの書に目を通してみようと考えたのです。ですがどれだけ捜そうとも見つからず、やはりローカ君が持ち帰ったのだと判断し、その場は捜すことを断念してしまいました。……しかし今朝方のこと、所在不明だったそれがまるで見つけてくれとでも言わんばかりに机の上に置かれていたのです」
頁をめくる手を止め、続きを催促するように先生を見上げる。
「手に取ってみて違和感を覚えました。——エデン君、こちらをよくご覧になってください」
言って書物の天に指先を差し入れると、先生は指の背を使って頁をこじ開けるようにめくってみせる。
一見しただけでは何が先生の違和感の源であるかはわからなかったが、視線が頁をつづり合わせた喉の部分に至ったところで異常に気付く。
「あ——」
ちょうど頁が一枚分、ちぎり取られたかのように乱雑に切り離されているのだ。
「これ、ローカが……?」
「よく見てください、まだ切り口が新しいでしょう。ローカ君の仕業と見て間違いないと思います。昨日この書を手したローカ君は、何か思うところあって再びここを訪れた。おそらくはご自身で考え至った推論を今一度見定めるためにです。そして彼女はあるひとつの答えに帰着した結果——」
「いなくなった……?」
「はい。それが現時点での私の推測です」
「ど、どうして!? ……先生、これは——この本はなんなの……?」
「こちらは——」
詰め寄るエデンの手から書物を抜き取り、開かれていた頁を閉じつつ先生は続ける。
「——この件についての回答は一時保留とさせてください。それよりも今はローカ君の行方を突き止めるほうが先決です」
「……う、うん。そう——かも」
先生の判断はもっともだ。
なぜ姿を消そうと考えたのかを知りたければ、顔を合わせて直接尋ねれば済むことだ。
「でも捜すってどうすれば……」
はやる心を抑えられず食い付くように尋ねるエデンを差し出した掌で静めると、先生は傍らに控える少女に向かって短く告げた。
「シオン、お願いします」
「いいのですか?」
何事かを求められたにもかかわらず、シオンは逆に許しを乞うかのような口ぶりで問い返す。
「貴女の力が必要です」
「——はい。承知しました」
先生を見上げて小さく首を縦に振ってみせたのち、シオンは不意にエデンに向かって手を伸ばす。
「貴方も来てください。役に立ってもらいます」
言ってエデンの手を取り、シオンは思い立ったように走り出した。




