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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第二章  自由市場(じゆういちば) 篇   第四節 「賢者と知愛づる少女」
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第百六十四話  渡 河 (とか)

「か、勝手なことを言わないでください!! 誰がそんなことを頼んでくれと言いましたか!? 私のことは私が決めます!! 都合のいいときだけ子供扱いしないでくださいっ!!」


 明らかな怒気を含んだ震え声で叫んだかと思うと、手にした柄杓を放り出したシオンは長衣の裾を翻すようにして部屋を出ていってしまう。


「シオンっ!! ——うわっ……!!」


 後を追おうと勢いよく立ち上がるが、積み上げられた書物の山に足を取られて倒れ込む。

 舞い上がった埃を吸い込んだことで激しくせき込むエデンに対し、先生は思いの外落ち着いた口調で言った。


「大丈夫ですよ。あの子は誰よりも聡明な子です。私のことも、私の言いたいことも、私本人よりもよく心得ているのがあの子なんです。それにこうして喧嘩をするのも珍しいことではありませんから。もっとも決まって叱られるのは私のほうなのですが」


「け、けど……」


「お腹がすく頃には戻ってきてくれることでしょう」


 文机を離れた先生は転倒したまま起き上がれずにいたエデンの元に歩み寄ると、苦笑いとも照れ笑いともつかぬ笑みを浮かべて手を差し伸ばす。

 尻もちをついていたエデンを引き起こしたのち、先生は布越しに自らの腹部を円くなでた。


「どうしてかあの子には私の腹具合もわかっているみたいなんです」


「……うん」


 釣られて頬を緩ませていたところ、ふと気配を感じて下方に視線を移す。

 足下に認めたのはしゃがみ込んだローカの姿で、彼女は辺りに散乱した幾冊もの中から一冊の書物を拾い上げていた。


「ローカ、どうしたの……?」


「おや、その本は……」


 エデンの呼び掛けに応えることなく、ローカは書物の表紙を食い入るように見詰め続けている。

 そんな様子を目にして意外そうに首をかしげる先生だったが、すぐに気を取り直すかのように口を開いた。


「お気に召したのであればお貸ししますよ。どうぞ遠慮なさらずお持ちください。運命の一冊との出会いは一期一会ですからね」


 持ち掛けられた提案に対し、固く目を閉ざしたローカは左右に激しく頭を振って応じる。

 続けて手にした一冊を忌避するかのように手近な山の上に戻すと、書物から身を遠ざけるように立ち上がった。


「ローカ、借りていかなくていいの?」


 尋ねるエデンの腕にひしとしがみ付き、早く部屋を出ようとでも言わんばかりに手を引く。

 意地でも離れようとしないローカの背に触れてみれば、わずかに身体が震えているのが伝わってくる。

 何か恐ろしいものでも見たのかと自らも書物の山に手を伸ばすエデンだったが、取り付いて離れようとしない少女がそれを許さなかった。


「……う、うん。今日は帰ろうか」


 不思議と崩れない書の塔の最上段に、表紙を下にして平置きされた一冊。

 何が書かれているのかひと目だけでも見てみたい気持ちはあったが、怯えるローカのためにも今日のところは見送ったほうが賢明と判断する。

 伸ばしていた手を引っ込めたエデンは、先生に対して話を聞かせてくれた感謝を告げた。

 食事の時間になれば戻ってくるだろうと先生は言っていたが、出ていってしまったシオンのことも気掛かりだ。

 近いうちに再び会いに来ると伝えてほしいこと、それからムシカを責めないでほしいことを伝え、その日はいとまを告げることにした。


 普段以上に生気の感じられない顔色のローカをの手を引き、勝手口から先生の家を後にする。

 少し歩き進めたところで不意に振り返るローカの視線を追ったエデンは、石造りの建物の屋上に一人佇むシオンの影を認める。

 大河の方向を眺めやっていた彼女だったが、エデンら二人の存在に気付いたのか建物の端部へと進み出る。

 シオンは数階建てはあろうかという建物の扶壁ふへきの上に飛び乗ったかと思うと、深く息を吸って胸を反らし、地上に向かって大声を上げた。



「私は、どこへも、行きませんからっ!! ずっと、ここにいますから——!!」



 言うだけ言うと、シオンは背を向けるようにして扶壁を飛び下りる。

 誰もいなくなった屋上をしばし見上げていたエデンだったが、腕を取って離れようとしないローカの存在が、これ以上この場に踏みとどまることを諦めさせた。


 往路をなぞるように河沿いを進み、大河に架かる橋を渡る。

 橋上から見える正市民区側の船着き場には荷降ろしを待つ艀船の姿はなく、仲仕たちも荷揚げを終えて引き上げた後のようだった。

 一方で準市民区側の河辺では、変わらず老若男女がごみを物色する光景が見られる。

 じっと目を凝らしてみるが、ムシカたちの姿は見つけられなかった。


 橋の中ほどあたりに差し掛かったとき、直方体の——仰臥した人一人を収めて程よい大きさの木箱を担いで準市民区へ赴く一団と擦れ違う。

 道を譲る形で立ち止まったエデンは、準市民区の奥側から立ち上る煙を見上げながら先生の教えてくれた町の歴史を思い返していた。

 一団を見送ったのちは、平生よりもなお茫乎ぼうことした表情をたたえるローカの手を握り締め、足早に橋を渡り切った。


 正市民区を抜けてラヘルの待つ家へ戻ったローカは、帰宅を告げることもせず早々に屋根裏にこもってしまう。

 急ぎ後を追って梯子を上り様子をうかがうエデンの目に映ったのは、小さな天窓から暮れかける空を見上げる少女の後ろ姿だった。

 細く薄い背に掛ける言葉が見つからず、力なく梯子の裾に腰を下ろす。


「ローカ、少し調子が悪いみたい」


 心配で落ち着かない様子のラヘルと帰宅したラバンに対してそう説明してはいたが、二人もそれが当座逃れの言葉であることを理解している様子だった。


 食事に誘うため再び天井口から頭を突き出すが、ローカは数刻前と変わらない姿勢で空を見上げている。


「一緒に食べよう」


 ラヘルから託された料理の皿を片手に声を掛けてみても、一向に反応を示す様子はない。


「ローカ」


 名を呼んで顔をのぞき込もうとも、少女の目は天窓の先に広がる夜空だけを捉えて小揺るぎもしない。

 ローカの分の皿を天井裏に残して梯子を下りると、ひどく心配そうに見上げるラヘルとラバンの姿があった。


 梯子に身を預け、時が経つのを待った。

 幾度も梯子を上っては少女の背中を見詰め、時折名前を呼び掛ける。


 深夜を回り、未明を過ぎ、時刻は朝へと移ろい始めている。

 何度目になるだろう、屋根裏へと続く梯子に手足を掛ける。


「ローカ——」


 屋根裏に続く天井口から顔を出し、声を掛けようとした瞬間だった。

 眼前の光景を、にわかには信じられない思いで見詰める。

 二人で暮らすにはいささか窮屈な、それでも身を寄せ合って短くない時を過ごした屋根裏部屋。


 白み始めた朝の日が差し込む天窓の下、そこにローカの姿はない。

 つい一刻ほど前までそこにあったはずの少女の姿が、こつぜんとして消え失せてしまっていた。


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