第百六十三話 無 名 (むみょう) Ⅱ
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「——なるほどなるほど、そうですかそうですか」
今に至るまでの出来事を話し終え、エデンはうつむくようにしていくばくかの疲労と安堵の入り交じった吐息をつく。
知り得る限りを打ち明けてしまおうかとも考えたが、ローカの持つ遠見の力に関わる部分だけは伏せて語り、半ば無理やりに帳尻を合わせる形にしてある。
齟齬や矛盾を見透かされていやしまいかと恐る恐る顔を上げるが、机に向かった先生は興奮気味に漏らしながら何やら熱心に書き留めている。
次いで先生の後方をちらとうかがえば、シオンもまた考え込むように顔を伏せていた。
「はてさて、お二人とも実に波乱万丈な道のりを歩んでこられたのですね。いや、よくここまでたどり着いてくれました」
先生は書き物を終えて放り出すように筆を置き、一人納得したように繰り返しうなずいてみせた。
「……ううん、それは少し違う——かな。ええと、ローカは違わないけど、自分はそんな立派じゃないよ。みんなから助けてもらって、生きるためにみんなのまねをしてただけだから」
「いやいや、何が違うものですか。学びは真似び、模倣こそ創造の源泉です。詮ずればあらゆる学問も芸術も自然の模倣に過ぎません。貴方は文法よりも数式よりも大切な学びを、かく多くの痛みとともに身に刻んできたのです。立派ですよ。——ええ、とても立派ですとも」
「……そう、かな」
自らに言い聞かせるように呟き、掌に視線を落とす。
「……何もないからまねするしかなかったんだ。みんなと同じように頑張ればいつか自分も本当の人になれるんじゃないかって……そう思ってたんだと思う」
「何を仰います。立派な人ですよ。人立つ、とは実に言い得て妙ですね」
「そうだったらうれしいな。——先生、ありがとう」
先生に感謝の言葉を告げる中でふと気付くのは、部屋の奥から投げ掛けられるシオンの険しいまなざしだ。
どう応えるべきか考えあぐねた末の作り笑顔は、彼女の表情をより厳しくさせるだけだった。
「ちゃんと人だって」
言って隣に腰を下ろしたローカに向かって小首をかしげれば、彼女の口からも小さな首肯を伴った「人」の言葉が返ってきた。
振り返ればずいぶんと遠くへ来たものだと感じ入るが、何度も追想をする中でじわじわと胸の内からしみ出してくるのは、心の一部をあの日の荒野に置き忘れてきているのではないかという感覚だ。
確かに人に近づいてはいるかもしれない。
近づいてはいるが、決して届かないような隔たりを感じているのも事実だ。
原因をかの地に求めるのであれば、帰るべき故郷の欠如か、産みの両親の不在か。
あるいはあるべき記憶の欠落か、名乗るべき名前の遺失か、それとも種としての力を持たぬ無腰の身であることの焦燥なのかもしれない。
人だと認められてうれしくないわけなどなく、これほど喜ばしいことはないはずだ。
だが、模倣て人になれるなら、より強き力を得られたらとも思う。
切り裂き噛み砕く力があれば、堅固な鎧甲と空舞う翼があれば、並ぶことも守ることも現実的な選択肢として存在していたかもしれないのだ。
「ちなみにですがエデン君、人が四つの種に大別できることはご存じですね?」
「え……!? あ——」
予期せぬ問いに言葉を詰まらせる。
胸中を読んだかのような内容に驚愕を覚えるが、おかげで懊悩の淵から引き上げてもらえた気がする。
「四つ……四つは——」
思考を放棄し、自身の知る種の名を列挙する。
「——ええと、獣人、嘴人、鱗人と、もう一種は——その……」
口にしながら思い浮かべるのは、これまでに出会ってきた人々の姿だ。
三種の名を挙げたところで口ごもるエデンに対し、先生は繰り返しのうなずきで応じる。
これ以上待っても四つ目が出ないと判断したのだろう、先生は不意に後方を振り返った。
「それではシオン、貴女から詳細の解説をお願いします」
「わ、私がですか……? 突然何を言い出すのかと思えば、それが今必要な事とは到底考えられませんが……」
ずり落ちた円環を指で押し上げながら不服げな口ぶりで答えるシオンだったが、不承不承といった様子で小さなせき払いをして話し始める。
「体表は被毛に覆われ、胎内で子を育てたのちに出産し哺乳による育児を行う『獣人』。角質の鞘で覆われた嘴と身を包む羽毛を持ち、多くが飛翔に対する適応を示す『嘴人』。重なり合った硬質の鱗甲で表皮を覆い、陸上や水中など多様な環境での生活に適応した『鱗人』。裸出した皮膚を有し、水辺や湿地を起居の場とする『潤人』。これら四種を私たちは『四大種』と呼びます。——これでいかがでしょう」
「いいですねいいですね、申し分のない答えです」
先生は伺いを立てるシオンに満足げな笑みをもって応じ、彼女の言葉を引き取るようにして続けた。
「外形の特徴や備える器官の構造や機能など、共通した属性を手掛かりに集団として統合し、時に類別し、人は人という生き物を体系的にまとめ上げてきました。それがこの世界をお創りになられた造物主たる神の御心を推し量る結果につながると信じてのことです。神話においては飽くことなく争い続ける人に対して怒りを覚えた神がその傲慢さを打ち砕く意味を込めて異なる姿形を与えたと語られていますが、それもむべなるかなです。神話の中でも歴史の中でも争い続ける人の愚かしさ——ですね」
嘆息めいた吐息をひとつつき、先生は仕切り直すように話を再開する。
「四大種として類別された種の中には、さらなる分類が無数に存在します。たとえ似通った特徴や性質を持ち合わせていても、生きる時代や住む場所が変われば全く別の種として扱われるなんてことも往々にしてあります。出会う人皆々信じてくださいませんが、かく言う私も獣人であり蹄人なんですよ。獣人の中の蹄人の中の『鯆人』——それが私の今の種名です」
「蹄人……!? 先生が……!? で、でも……」
思わず声を上げる。
つるりとした身体には体表を覆う被毛も見られず、扁平な手足の先には蹄らしき部位もない。
知らずのうちに総身に視線を走らせてしまっていたことに気付いて慌てて目を伏せるが、先生は特段気にした様子もなく語り続けた。
「名前とは曖昧なものです。名称も分類もあくまで人の手によってなされるものであり、私たちは皆等しく押し並べて人です。神がそう命名したわけでもなく、最初の一人がそう名乗ったわけでもない。どこかの誰かが目立った形質を恣意的に取り上げて定めた呼び名が定着しただけなのかもしれません。ですが、名とは呪いでもあります。望む望まないにかかわらず、同一の名を持つ集団に属してしまう、属さざるを得ないのも人という生き物です。属することが必ずしも良い結果を生むとは限りませんが、集団に対する忠誠心が自己の確立や人格の形成に及ぼす影響は多大です。そして自己と帰属する共同体に対する愛着が度を越えて膨らめば、他の集団に属する人々をたやすく排除しようとするのもまた人の性と言えるでしょう」
よどみなく語るうち、飄々としてつかみどころのない先生の口調が徐々に真剣みを帯びていく。
「エデン君、ローカ君、そしてシオン。貴方たち三人は種としては稀有な存在です。まだ幼かったシオンと出会ってはや数年、私もその素性や系統について解き明かそうと腐心してきました。この地に居を構えて以降も、さまざまなつてを頼って原点にたどり着こうとしました。手に入る限りの文献や史料を繙き、いにしえの昔に描かれた絵画や造形物、特定の種の間のみに伝承される詩歌や舞踊なども考究の対象としました。しかし、どれほど求めようとも歴史の中にその源流を捉えることはかなわず、端緒さえつかませてもらえないままいたずらに日々を費やしてきました。ですが……それも昨日までの話です」
言って先生は深々と息をつく。
「私の数年がかりのあがきなどお構いなしとばかりに貴方たちは出会いました。エデン君とローカ君は導かれるように邂逅を果たし、今こうしてシオンもその輪に加え入れられたのです。残念なことに私はいまだにお目に掛かったことはないのですが、もしも実際に世界をお創りになられた神がおわしまさば、貴方たちを出会わせたのもそのような大いなる意思の思し召しとも考えられます。私は貴方たちは出会うべくして出会ったのだと確信しています。種の名の呪縛に縛られない貴方たち三人になら、きっと世界はその本質を開陳してくれることでしょう」
先生はエデン、ローカと順送りに視線を移し、最後にいつになく厳粛な面ざしでシオンを見据えた。
「貴女も気付いているのでしょう」
「何がですか……? 気付くも何も、先生が何を仰ろうとしているか皆目見当が付きません」
突如として水を向けられたシオンはいら立ちを隠そうともせず答え、露骨なしぐさで先生から目をそらす。
「シオン。種の名に縛られた私と何物にも縛られない自由な貴女の見ている、聞いている、触れている世界は全くの別物です。私は貴女と同じように悩むことも苦しむこともできません。どれだけ時間と労力を費やしても、幼き日の貴女が問うた疑問に答えてあげることもできませんでした。もしも貴女の抱く悩みや苦しみ、そして喜びを分かち合うことができる者がいるのならば、真の理解者たり得る者が存在するのであれば、それは名を持たぬ貴女と同じ世界に身を置く誰かなのです」
先生はシオンからエデンへと視線を移し、居ずまいを正すようにして向き直る。
「エデン君。物は相談なのですが、この子と友達になってあげてくれませんか? もちろんローカ君にもお願いします」
「……そ、それはもちろんそのつもりだよ」
「ありがとうございます。そう言っていただけてうれしいです。では——」
思いも寄らなかった依頼に慌てつつも繰り返しのうなずきで応じるエデンを目を細めて見詰めたのち、先生は深々と頭を下げて言った。
「——お二人がこの町を発つときは、どうかシオンもご一緒させてください」
「えっ……!? じ、自分たちと……?」
絶句するエデンをよそに、先生は当のシオンを置いて一人喋り続ける。
「旅に必要な知識はひと通り教えてありますし、護身程度ですが武芸の心得も持ち合わせています。連れていっていただければ、きっとお役に立てると思います。ほら、シオン。貴女からもお願いして——」
言って後方を振り返る先生だったが、そこにあったのは柄杓を手に無言で立ち上がるシオンの姿だった。
柄杓は先生の頭上で勢いよく裏返され、合いっぱいに満たされた水が降り注ぐ。
「うわわっ!! は、鼻に……!! 水が鼻に——」
頭頂部に位置する鼻であろう部位に水を注ぎ込まれた、先生はこほこほとむせ込むようなせきを繰り返した。




