第百六十一話 喋 喋 (ちょうちょう) Ⅱ
「当時は現在の名では呼ばれてはいませんでしたが、二つの都を結ぶ街道上にあるこの自由市場は戦争において要衝と呼ばれる場所の一つでした。西の都の軍勢はこの地に兵站の拠点を置き、多くの人々が後方から戦争を支援しました。戦争は多大な需要を生み出し、当初は行商人たちの立ち寄る他より幾分か大きな宿場でしかなかったこの土地に、大陸各地から仕事を求める人々が大挙して押し寄せてきたのです。皮肉なことですが、今日の自由市場の繁栄は人々の起こした戦いのたまものと言っても決して過言ではありません。しかし——」
滔々とよどみなく話す先生の瞳に、悲哀とも悔恨ともつかぬ色が浮かぶのを見て取る。
「——幾多の犠牲者を出した戦争はあっけないほどたやすく終結を迎えました。残されるのは踏み荒らされた大地と、全てを失って深く傷ついた人々です。忘れ去られて過去になりつつある戦争ですが、癒えぬ傷痕と深い恨みを残したまま、今なおその残り火をくすぶらせているのです。後に準市民区と呼ばれるこの場所——元々は芥場や火葬場として使われていた河のこちら側にも、戦争を契機として劇的に増加した雇用を当てに多くの移住者たちが流入していました。ですが、皮肉にも終戦を迎えて以降は仕事の機会も加速度的に失われていきます。戦争の需要を得て富を成した者と、身過ぎの手立てを奪われて路頭に迷う者。その際に生まれた両者の差が、大河を挟んで成り立つ二つの区画そのものを表していると言えるでしょう。戦争は終わりました。終わりましたが——人が人の身である限り、平和は常しえに続くものではありません。戦と戦の間に揺蕩う、つかの間の凪のようなものです。戦争の終結は歴史家の描く史書の紙上の出来事に過ぎません。戦争の残した負の遺産はいまだ人の間に尾を引き、人々を苛み続けているのです」
「戦争は……まだ続いている」
「少なくともこちら側においては——です」
がくぜんとして呟くエデンを見詰め、先生はどこか皮肉げな口ぶりで言い添える。
「戦争の爪痕や遺恨が根深く残るこの地には、学びたくても学ぶことを許されず、日々の暮らしに追われ続ける子供たちが今でもたくさんいます。学校に通うためのお金もなく、家族の世話や家計のために働かなくてはならないというのが大きな理由ですが、中には親によって学ぶことを禁じられている子供たちもいます。役に立たない勉強をするくらいなら働いたほうがまし。生活に窮迫した親たちの価値観は子供に引き継がれ、閉じられた一つの巡りが出来上がります。子供たちはより良く生きるための知識や技能を得る機会を奪われ、狭い世界で生きることを余儀なくされる。……私はそんな負の連鎖を断ち切りたかったのです」
左右の手で顔を覆った先生は、思考を切り替えでもするかのように左右に頭を振る。
胸を反らして深呼吸をひとつすると、常と変わらぬ柔和な笑みを浮かべて再度口を開いた。
「ムシカのこと、本当にありがとうございます。エデン君の仰ってくださったように、あの子は幸いでした。不心得にも手を出してしまったのが貴方のお知り合いのお二人だったこと。そして私では逆立ちしても教えられなかった、学問よりも大切なことを教えてくれる貴方に出会えたこと。ムシカにとってこんな幸運はありません。……本当にありがとう、エデン君」
「そ、そんなことない! ……自分も同じだったんだって、それを伝えただけなんだ。だから自分は何も——うん……」
椅子から身を起こして深々と低頭する先生に対し、エデンもまた立ち上がって応じる。
消えゆく語尾とともに傍らに腰掛けるローカを見下ろすと、ひと呼吸置いて再び先生に向き直った。
「……自分もたくさん間違ってきたから。一人で成し遂げられたことなんて一つもなくて、いつも周りのみんなに助けてもらってきた。みんながいなかったら、間違いを間違いだって気付けずにいたと思う。間違いは間違いだけど、もっと大きな間違いは、間違いを間違いだって知らずにいることなんだって。……だからムシカにはそうなってほしくないんだ」
「……ふふふ。なかなかに学者ですね、エデン君。私も貴方と同じですよ。自分が教える側に身を置いているかと思えば、教えられているのは私のほうなのだと気付かされるのです。現に今もこうして貴方に教えられています。ひたすら学問に傾倒していたときには考え付きもしなかった発見をくれるのは、いつだって今を生きる子供たちです。そんな私が彼らに真に伝えるべきはいったいなんなのか、今一度考えてみなければなりませんね」
感じ入るように何度も何度もうなずいたのち、先生は「ところで——」と話題を転じるように切り出した。
「——エデン君。子供の頃の思い出はお持ちですか?」
「え……? あ、ええと……」
思いも寄らなかった突然の問い掛けを受け返答に窮するエデンに対し、先生は確信めいた口ぶりで続けた。
「エデン君、ローカ君。お二人もある時点を境にそれ以前の記憶を持っていないのでは?」




