第百六十話 喋 喋 (ちょうちょう) Ⅰ
先生の待つ家に向かって来た道を引き返す間も、エデンは自らの取った行動の是非について思いを巡らせ続けた。
シオンは最善と評してくれたが、思い返せば思い返すほどもっと他のやり方があったのではないかと無念でならない。
帰途、先を歩むシオンが振り返って気遣わしげな視線を向けてくれることが幾度かあったが、目が合うたびに顔を背けてしまう。
その後は肩を並べて歩くローカとシオンが数度言葉を交わすところを認めたが、後方からでは会話の内容までは聞き取れなかった。
「ただ今戻りました」
帰宅を告げるシオンの後に続いて家の中に足を踏み入れたエデンは、辺りに漂う甘い香りを嗅ぎ取る。
書斎に入ったところで目に留めた香りの発生源は、水にくぐらせた煙を長い煙路を通して吸引する水煙草だった。
シオンの放ついかめしい視線の標的となった先生は慌てて炭を火消し壷へと放り込む。
軽くむせ込みながら周囲の空気を循環させるように手で扇いだのち、先生はどうにも決まりの悪そうな表情で口を開いた。
「お帰りなさい、ご苦労さまでした! して、首尾はいかがでしたか?」
「うん、その——」
河辺での出来事を可能な限り過不足なく伝えると、先生は見るからに力を失ったようにがくりと肩を落としてしまった。
「……私は大きな思い違いをしていたのかもしれません。この子と——シオンとこの土地に移り住んだのが数年前、そこからようやくこうして学校のまね事ができるようになって一年ほどが経ちました。学校がないなら作ればいい、教師がいないのであれば僭越ながら私が務めれば、と考えての今です。読み書きや計算を通じて子供たちに生きる力を身に付けてほしい、学びを自らの道を切り開くすべにしてほしい、そんな願いを込めてここまでやってきました。少しずつ備品もそろえらえるようになりましたが、それでも生徒一人一人に満足な筆記具を用意してあげられないのが現実です」
先生は扁平な手で額をさすりながら、自らの行いを悔いるかのように弱々しい声音で語る。
「学問は人の生み出した至宝です。数多ある学問の中でも、私が数学をこよなく愛するのには一つの理由があります。偉大なる先人が導き出した数式は、どんな見事な絵画や彫刻にも負けない美しさを宿しています。そしてその門戸は求めんと欲する者に対してあまねく開かれ、誰にでも手の届き得るものだと信じていました。それが——学びに対する執着が人の道に背く行為を助長させたのであれば、私の理想は全くの見当違いだったということになります。本末転倒も甚だしいとはこのことです。……教師などと、先生などと、何の面目があって名乗れましょうか。ふがいない限りです」
「せ、先生……」
先生はますます深く肩を落とし、両の手で頭を抱えてしまう。
掛ける言葉の見つからないエデンだったが、ふと脳裏をよぎるのは授業を受ける子供たちの姿だ。
先生を見詰める少年少女らのまなざしに宿る輝きは、どこまでも純粋で真剣で、ひたむきそのものだった。
もしもムシカの心に魔が差したとしても、それは決して先生だけの責任などではない気がする。
傍らに歩み寄ったシオンがそっと背に触れると、先生はどう見てもそうとわかる作り笑いで彼女を見上げた。
「……その、先生はどうしてみんなに勉強を教えようって思ったの? ……それまではずっと旅をしてたんだよね」
先刻は不用意に距離を詰めたことで、ムシカの心に傷を負わせてしまった。
先生も頭が良いと認める彼が罪の意識に苛まれているであろうことなど考慮に入れず、ぶしつけな言葉と行動で傷口に塩を塗ったのだ。
そして今はこうして先生の抱く理想や展望をくじくようなまねをしている。
被害者であるホカホカが謝罪を求めていたわけでもないのに、出過ぎた行いで事態をややこしくしたのは己以外の誰でもない。
自己嫌悪と皆への申し訳なさに耐えられないエデンは、気付くと話題をすり替えるように尋ねていた。
「そうですね、敢えて申さば贖罪——でしょうか」
「しょく——ざい……ええと、罪滅ぼしってこと……?」
「はい、そうです。大人たちの手前勝手な理屈によって引き起こされた禍害に対する私なりの後始末——とでも言ったほうが適切かもしれません。……時にエデン君、ローカ君。お二人は三十年ほど前に起きた戦争のことをご存じですか?」
「戦争……」
もちろん言葉の意味はわかる。
それがかつて人々の間に起こった惨劇の名であることも、大多数の人にとって好ましからざる事柄であることも知っている。
だが、それが現実感を伴わないどこか別の場所に置かれた出来事のようにしか感じられないのも事実だ。
返答に窮して目を伏せるエデンだったが、先生はあきれた様子を見せることもなく、不案内を非難することもなかった。
「少しだけお時間を頂戴します」
そう前置きすると、先生はこほんと小さくせき払いをして言葉を続けた。
「三十年ほど前のことです。大陸の両端に位置する二つの大集落の間で大きな戦争がありました。些細な行き違いから生まれた小さな諍いの火種はいつしか大きく燃え広がり、大陸中を巻き込む巨大な戦火へと姿を変えていったのです。多くの人々が、あまたの種が戦争に加担しました。強き者は力を振るいます。地を馳せ、空に舞い、水を往き——己が力を戦の道具に変えて命を奪い合ったのです。戦争は長きにわたって続きました。そして強者の身勝手な振る舞いのあおりを受けるのはいつの時代も弱き者たちです。多くの市井の人々が戦いの犠牲となりました」
言葉を区切った先生は反応をうかがうかのようにエデンを見詰める。
ローカと無言の目配せを交わしたエデンが促しの意味を込めてうなずき返すと、先生は応ずるように語りを続けた。




