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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第二章  自由市場(じゆういちば) 篇   第四節 「賢者と知愛づる少女」
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第百五十六話  三 顧 (さんこ) Ⅰ

 正市民区と準市民区、二つの区画を分断するように流れる大河に架かる橋、こうしてそれを渡るのも何度目になるだろう。

 一度目は盗人を追って知らずのうちに。

 二度目は先生とあだ名される人物を訪ねて自身の意志で。

 そして三度目である今日は、再びローカと共に河を越えている。


 橋番は今日も今日とて橋を渡ろうとする異物に対していぶかしげな視線を向けてくるが、ここは気付かないふりをしてやり過ごす。

 橋の中ほどから河の上流を望めば荷を運ぶ幾艘もの艀船がうかがえ、正市民区側の河辺では荷揚げを行っている者たちの姿も見て取れる。

 一方で下流に目を向ければ護岸の施されていない準市民区側の河辺には、堆積したごみや屑物を物色して回る人々の姿があった。


 橋を渡り切ったのちは、ローカの手を引き足早に歩む。

 要らぬ騒ぎを起こさぬよう住人たちと目を合わせることなく進み、瓦礫を積み上げて作られた家々の合間を通り抜けていく。

 昨夜伝えられなかった訪問の理由については道中で話そうと考えていたが、結局詳細を伝えることのできないまま先生の家へとたどり着いてしまっていた。


「そっちが玄関に見えるけど、入るのはそっちじゃないんだ」


 玄関前に立って扉を見据えるローカに向かって告げ、石造りの建物の脇に回り込む。

 不用心にも開け放たれたままの勝手口から、来訪を告げるべく屋内へ向かって呼び掛けた。


「先生! シオン!」


 しばらく待ってみるが返答はなく、部屋の中をのぞき込んでみても二人の姿はどこにも見当たらない。


「……もしかして出掛けてるのかな」


 呟きながらもう一度部屋の中をのぞき込んでいたエデンは、袖の引かれる感覚に後方を振り返る。

 そこには袖をつかむ側と逆の手で建物の裏手を指し示してみせるローカの姿があった。


「向こう?」


 勝手口を後にして建物の裏手へ足を進めるうち、何やら話し声が聞こえてくる。

 耳を澄まさずとも、うきうきと弾むような声の主が先生であることはすぐにわかった。


「——三辺の中点。三角形の三つの頂点対辺に向かって下ろした垂線の足。そして垂心と三頂点の中点です」


 聞こえてくる声を頼りに角を曲がって建物の裏手に出たエデンの目に飛び込んできたのは、種もさまざまな十数人の子供たちだった。

 先生は壁面に据え付けられた塗板ぬりいた上に描かれた三角形や円形などの図形を示し、子供たちに向かって熱心に解説を述べている。

 一方でむき出しの土の上にそのまま腰を下ろした子供たちも、先生の言葉に真剣に耳を傾けている。

 裏庭に集まった子供たち、熱を入れて教えを施す先生、そして少し離れた場所に立つシオンも、建物の角からのぞき込むエデンたち二人に気付く様子はなかった。


「この通り、一つの円上に九つの点が乗っているのがわかります。またそれだけではなく、内側にあって全ての辺に接する円」


 先生は開閉する脚を有した木製の器具を用いて三角形の内側に円を描く。


「そして外角の二等分線の交点である傍心を中心として、一辺と他の二辺の延長に接する円——」


 言い添えながら、続けて三角形の外側にそれぞれ大きさの異なる三つの円を描いてみせた。


「——三角形においてその九点円は内接円に内接し、傍接円に外接します。偉大なる先人によって証明された真なる命題の一つです。……美しいですねえ、ほれぼれしますねえ」


 どうだといわんばかりの得意顔で呟くと、先生は自らの板書した図形を恍惚とした表情で眺めていた。

 描かれた図形を食い入るように見詰める者、握った枝で地面に同じように三角形と円形を描いてみる者、隣同士で論じ合う者。

 向き合い方は各人各様だったが、集まった子供たちの全てが先生の行う授業に真剣に向き合っているように見えた。


「先生」


「は——はい、なんでしょうか」


 子供たちの中から、一人の少年が挙手とともに口を開く。

 細めた目で陶然と塗板を見詰めていた先生は、少年の言葉を受けてはたと我に返った。


「それってさ、どんな三角形にも当てはまるの? その三角形だけが特別なんじゃないの?」


「うんうん、とてもいい質問ですね。——ささ、ムシカ、前へどうぞ」


 先生は疑問を受けて満足げにうなずき、少年に向かって促すように手を差し出した。

 集まった子供たちの中から、尻を払いながら一人の少年が立ち上がる。

 先生の元へと歩む横顔を目にした瞬間、エデンは思わず反射的に声を上げてしまっていた。


「あっ!!」


 突然響く大声に、子供たちの視線が一斉に動く。

 それはムシカと呼ばれた少年も例外ではなく、エデンと目が合うや急き込むように踵を返して走り去ってしまった。


「おい、ムシカ!! どこ行くんだよ!?」


 同種であろう幾人かの少年少女が次々と立ち上がり、去っていった少年の後を追う。

 最初に走り去った少年は無論のこと、エデンには彼を追った子供たちにも見覚えがあった。


 先生は依然として固まったままのエデンを見やり、次いで何が起こったのかとざわつき始める子供たちに視線を走らせる。


「そろそろ時間ですね。今日の授業はここまでにしておきましょう!」


 授業の終了が告げられると、残った子供たちはおのおの帰り支度を始める。

 事情を察して素直に応じる者もいれば、納得いかずに不承不承といった様子の者もいたが、めいめい先生に礼を言いながら去っていく。


「はい、また明日」


 先生は一人一人とあいさつを交わし、帰っていく子供たちの背中を見送っていた。

 中にはエデンたちの脇を通り過ぎる際、いぶかしげな視線で見上げてくる者もいる。

 軽く手を掲げて応じてみるも、子供たちは逃げるように走り去ってしまった。


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